第3話「騎士の猜疑、王女の期待」

 石と鉄が放つ冷気の中で、アレンは思考を巡らせていた。

 あの玉座の間でのやり取りは、失敗ではなかったが、成功でもない。幻惑の魔術だと一蹴され、王の判断は保留。状況は、一歩も前に進んではいなかった。

 恐怖は無知から生まれる。それは、彼がUGEの外交アカデミーで最初に学んだ言葉だった。ならば、恐怖を乗り越えるために必要なものは何か。それは、相手にとっての明確な「利益」の提示だ。自分の存在が、彼らにとって脅威ではなく、有益なものであると証明しなければ、対話のテーブルにさえ着くことはできない。

 だが、どうやって? この隔絶された牢獄の中で、一体何ができるというのか。

 その時だった。牢の通路の奥から、微かな衣擦れの音と、小さな灯りが近づいてくるのが見えた。衛兵の交代時間ではない。アレンは身を起こし、鉄格子の向こうを凝視した。

 松明の揺れる光の中に現れたのは、予想もしない人物だった。

「……王女殿下」

 フード付きのマントで姿を隠したリアーナが、そこに立っていた。彼女は人払いをし、たった一人でこの薄暗い地下牢まで下りてきたのだ。その瞳は、昼間の玉座の間で見たものよりも、さらに真剣な光を宿していた。

「夜分に申し訳ありません、アレン・クロフォード」彼女は、牢の前に立つと、静かに言った。「少し、お話が聞きたくて参りました」

「私と、ですか?」

「はい」リアーナは頷いた。「あなたの故郷では、本当に誰もが、その……星の海を旅するのですか? 王や貴族だけでなく、市井の民までもが?」

 その問いに、アレンは彼女の渇望の正体を見た。これは、為政者としての単なる知的好奇心ではない。王という籠の中で生まれ育った一人の少女が、自らの知らない世界、自らの知らない自由に焦がれる、魂の問いかけだった。

 アレンは、鉄格子越しに、できるだけ誠実に語り始めた。誰もが旅をするわけではないが、その権利は誰にでもあること。別の星で生まれ、別の星で死んでいくことが、決して珍しくはないこと。そして、その自由が、時に孤独や争いを生むこともあること。

 リアーナは、まるで初めて聞くお伽話に耳を傾ける子供のように、彼の言葉の一言一句を真剣に聞いていた。

 アレンは、確信した。彼女こそが、この世界との交渉の、唯一の突破口になりうる、と。

「王女殿下。私の知識と技術は、あるいは、この国のお役に立てるかもしれません」

 その言葉が、リアーナの瞳の奥に、新たな光を灯した。


                     ※


 翌日、アレンは牢から出され、城の一室を与えられた。リアーナが父王を懸命に説得した結果だった。異邦人の知識が本当に国益となるか、見極めるための試験的な措置。ただし、それには一つの条件が付いていた。

「私が、お前を四六時中監視する」

 部屋に響いたのは、低く、そして硬い声だった。騎士団長ガレイド・アイアンハンドが、腕を組み、壁に寄りかかってアレンを睨みつけている。彼が、アレンの監視役だった。

「光栄です、騎士団長殿」

 アレンは平静を装って返したが、その視線は肌を刺すように痛かった。部屋は、牢獄よりは遥かに快適だったが、その息詰まるような空気は、ある意味、牢獄以上だったかもしれない。

 ガレイドは、アレンの一挙手一投足を見逃さなかった。アレンが腕のケイローン・バンドを操作してホログラムを表示させれば、「その妖しい光る絵は何だ」と問い詰め、ソラリスと通信していれば、「姿なき者と何を話している」と訝しんだ。

 ある時、ガレイドは耐えきれないといった様子で口を開いた。

「お前の戦い方は、気に食わん」

「と、おっしゃいますと?」

「なぜ敵を殺さぬ? あの森で、お前はオークどもを生かしておいた。情けは、いずれ自分や仲間の身を滅ぼす。それが戦場の掟だ」

 その言葉には、単なる信条以上の、個人的な痛みの響きがあった。アレンは、彼の心の奥に、癒えない傷があることを感じ取った。

「僕の世界では、かつて殺しすぎたのです」アレンは静かに答えた。「その果てに、僕らは故郷の星を失いかけた。だから学びました。力は、最後の手段であるべきだと。そして、使うにしても、相手の命まで奪う必要はないのだと」

「甘いな」ガレイドは吐き捨てた。「その甘さが、いつかお前の大切な者を奪うことになるぞ」

 二人の対話は、平行線を辿るばかりだった。だが、アレンは彼の猜疑心もまた、この過酷な世界で生き抜くために育まれた、一つの「理」なのだと受け止めていた。今は理解されなくとも、対話を続けること自体に意味がある。


 そんな緊張状態が続く中、リアーナが部屋を訪れた。彼女は、アレンに一つの依頼を持ってきた。

「北の王領地のことです。ここ数年、原因不明の地力低下に悩まされています。作物は育たず、民は疲弊しています。宮廷魔術師たちに調査させても、土地に呪いの類は見つからない、と……。あなたのお力で、何か分かることはありませんか?」

 これこそが、アレンが待っていた機会だった。

「お任せください。私の船……《オデュッセウス》には、広範囲の土地を分析する機能があります」

 アレンは、森に待機させている《オデュッセウス》に遠隔で指示を出し、高高度から北の土地をスキャンさせた。膨大なデータが、瞬時にソラリスへと送られてくる。

「解析、完了」ソラリスの声が、アレンの耳にだけ届く。「土壌の窒素及びリンの含有量が、基準値を大幅に下回っています。また、過去五十年の降雨パターンを分析した結果、約十年周期で微気候が変動しており、現在は干ばつ期に移行する段階にあります。さらに、特定の作物を連作していることが、土壌疲弊を加速させていると断定」

 アレンは、ケイローン・バンドを操作し、その分析結果をホログラムとして部屋の中央に投影した。色分けされた土壌成分の分布図。立体的な気象シミュレーション。作物の栄養吸収率のグラフ。

 リアーナは、その光景に目を見張った。魔術師たちが呪いや神託といった曖昧な言葉でしか語れなかった事象が、具体的で、否定しようのない「データ」として目の前に可視化されている。

 隣に立つガレイドも、言葉を失っていた。彼は、これが幻術の類ではないことを、本能で理解していた。そこには、自分たちの知らない、しかし厳然として存在する、別の世界の「理」が示されていた。


 アレンは、具体的な改善策を提案した。地力を回復させる豆科の作物を間に挟むこと。小さな水路を数本引いて、効率的に水を分配すること。そして、ソラリスが算出した最適な時期に種をまくこと。それは、魔法のような奇跡ではなく、地道で、誰にでも実行可能な、科学的な処方箋だった。

 リアーナは、その計画書を手に、父王と貴族たちを説得にかかった。

 案の定、軍務大臣ヴォルフラムは、鼻で笑った。

「馬鹿馬鹿しい! 異邦人の戯言に、我らが王国の農業を委ねるなど、正気の沙汰ではございません! 土地のことは、長年それを耕してきた農民が一番知っております!」

 保守的な貴族たちも、次々と反対の声を上げる。玉座の間が、不信と嘲笑の空気で満たされる。

 だが、リアーナは怯まなかった。彼女は、父王の前に進み出て、深く頭を下げた。

「お父様、お願いです。どうか、試す機会をください。これは、我が国の民を救うための、新たな希望かもしれません。もしこの計画が失敗に終われば、その責任は、すべてこの私が負います」

 王女の、覚悟のこもった宣言。その気迫に、あれほど騒がしかった貴族たちも口をつぐんだ。

 父王は、しばらく娘の顔をじっと見つめていたが、やがて、重々しく頷いた。

「……よかろう。北の王領地の一部を、試験農地としてそなたに任せる。結果を見せてもらおう」


 その夜、アレンはリアーナの執務室で、彼女と共に、農民たちへの具体的な作業指示書を作成していた。複雑な科学理論を、この世界の人々が理解できる言葉へと、一つ一つ丁寧に翻訳していく作業だ。初めて、自分がこの世界の一員として、何かを「創造」している。その事実に、アレンは静かな喜びを感じていた。

 部屋の隅では、ガレイドがその様子を腕を組んで見つめている。その表情は、相変わらず険しい。だが、その瞳の奥には、以前のような単純な敵意ではなく、測りかねるような複雑な光が揺れていた。

 一方、その頃。軍務大臣ヴォルフラムは、自室の暗がりで、腹心の部下から報告を受けていた。

「王女様は、すっかりあの男に心酔されているご様子。来る日も来る日も、二人きりで……」

「……そうか」ヴォルフラムは、低い声で呟いた。「異邦人が、これ以上国の内側に入り込むのは見過ごせんな。監視を強化しろ。そして、何か妙な動きがあれば……分かるな?」

 部下は、無言で頷き、闇に消えた。

 アレンがアルカディアの地に蒔いた信頼という名の小さな種は、まだ芽吹いてもいない。だがその下で、新たな対立の根が、静かに、しかし着実に、張り巡らされようとしていた。

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