星屑のグリモワール

梓川奏

第1話「次元の漂流者」

 星々の海は、どこまでも静かだった。

 絶対零度の沈黙が支配する虚空に、一隻の船が浮かんでいた。全長百二十メートルほどの、滑らかな流線形。その船体は、磨き上げられた黒曜石のように鈍い光を放ち、恒星の光さえも吸い込んでしまうかのような深淵の色をしていた。地球統合政府、恒星間外交船オデュッセウス。それが、彼の城の名だった。


 船のブリッジに、物理的な座席やコンソールはない。アレン・クロフォードは、穏やかな無重力空間に漂いながら、目の前に広がる星図のホログラムを眺めていた。きらめく光の粒子が、彼の網膜の動きに合わせて形を変え、目的の星系を三次元的に描き出す。彼の思考そのものが、この船の舵だった。

「交渉プロトコル、完了。対象勢力、協定案に正式調印。これにて任務完了です」

 アレンの傍らに浮かぶ、直径五十センチほどの球体から、合成音声が響いた。最新鋭の自律型AI、《ソラリス》。彼の最高の相棒であり、そして最も手厳しい監視者でもあった。

「今回も完璧だったな、ソラリス。フロンティア同盟系の連中にしては、物分かりが早かった」

「あなたの提示した交易条件が、彼らの年次予算の実に百十二パーセントの利益をもたらすと算出した結果です。論理的な帰結であり、そこに感情の入る余地はありません」

「手厳しいな。少しは外交官の手腕を褒めてくれてもいいだろう」

 アレンは苦笑した。西暦二五五二年。人類が星々の海へと乗り出してから二世紀以上が過ぎたが、その版図にはいまだ明確な境界線が引かれている。絶対的な秩序を掲げる地球統合政府(UGE)と、自由を謳うコロニー国家群フロンティア同盟。二つの勢力は、見えない刃を交わし合う冷戦の只中にあった。

 アレンの仕事は、その境界線上で、言葉という名の剣を振るうことだ。彼は、UGEが生んだ最高のカードだった。二十八歳という若さで、数々の困難な交渉をまとめてきたエリート。その経歴に、一点の曇りもない。

 ――祖父が遺した汚名をそそぐまでは。

 ふと、脳裏をよぎった影を、アレンは頭を振って追い払った。過去は過去だ。自分は、体制の中で完璧な結果を出し続ける。それだけが、彼の存在理由だった。

「帰還しよう。ジェネシスへの最短航路を計算してくれ」

「了解。クロフォード・ドライブ、起動シーケンスに移行しま――」

 その時だった。ソラリスの声が、途中で途切れた。ありえないことだった。完璧な論理で構築されたAIが、言葉に詰まるなど。

「どうした、ソラリス?」

「……異常。未知のエネルギー反応を検知。データベースに該当パターンが存在しません。これは……これは、時空の構造的矛盾です」

 ソラリスの表面を流れる光のパターンが、青い冷静な光から、赤い警告の色へと激しく明滅し始める。ブリッジの穏やかな静寂は、けたたましいアラート音によって引き裂かれた。

「何だって?」

 アレンがホログラムの表示を切り替えた瞬間、彼は息を呑んだ。《オデュッセウス》の進行方向に、それは現れた。

 何もないはずの宇宙空間が、まるで巨大な涙を流すかのように、裂けていた。

 七色の光が渦巻く、巨大な時空の亀裂。それは物理法則が崩壊した傷口であり、同時に、神の御業と見紛うほどに幻想的な光景でもあった。ソラリスの分析によれば、そこからは想像を絶する重力波が発生しているという。

「ティア・ゲート……涙の門、か」

 アレンは、祖父が遺した異端の論文の中に、その名を見つけたことを思い出していた。異なる物理法則を持つ宇宙が隣接する時、稀に生まれるという時空のトンネル。UGEの公式見解では、存在しないはずの現象。

「警告。本艦の制御が不能。強力な重力場に捕捉されました!」

 ソラリスの悲鳴のような音声が響く。《オデュッセウス》は、抗いがたい力に引かれ、ゆっくりと、しかし確実に、その七色の裂け目へと吸い寄せられていく。船体がきしみ、アラートが狂ったように鳴り響く。アレンは必死に船の制御を取り戻そうとしたが、彼の思考は、巨大な宇宙の意志の前では無力だった。

 目の前に迫る、まばゆい光の渦。それが、アレン・クロフォードが自らの宇宙で見た、最後の光景となった。


                     ※


 意識が浮上する。

 重い頭痛と共に目を開けると、ブリッジは非常用電源の赤い光に照らされていた。メインシステムはダウンし、船内は不気味なほど静まり返っている。

「ソラリス……状況は?」

「……オンライン。船体各所に中程度の損傷。ですが、航行に支障はありません。驚くべきことに」

 相棒の声は、どこか困惑しているように聞こえた。アレンはゆっくりと体を起こし、ブリッジの窓へと近づいた。そして、息を呑んだ。

 眼下に広がっていたのは、データベースのどこにも存在しない、青々とした惑星だった。どこまでも広がる深い森、雄大な山々、そして煌めく川の流れ。まるで、人の手が加えられる前の、原始の地球のようだ。

 だが、アレンの視線を釘付けにしたのは、惑星そのものではない。その空に浮かぶ、二つの月だった。一つは大きく、優しい乳白色の光を放ち、もう一つはやや小さく、神秘的な青紫色に輝いている。

「……ここは、どこだ」

「座標、特定不能。既知の星図との一致率、ゼロ。我々は、我々の宇宙から完全に逸脱したようです」

 ソラリスが淡々と、しかし衝撃的な事実を告げる。

「環境分析を開始。大気組成、地球に酷似。生命活動に適しています。ですが……アレン、これは」

 ソラリスの声が、再び揺らいだ。

「大気中に、未知のエネルギー粒子を検出。その振る舞いは、既知のいかなる物理法則にも当てはまりません。仮称として、これを《マナ》と名付けます」

 マナ。魔法の源。それは、お伽話の中にしか存在しないはずの言葉だった。

 その時、船のシステムが自動的に一つのプロトコルを起動させた。

『ファースト・コンタクト規約アルファ、発動。対象、カテゴリー不明の知的生命体が存在する可能性のある惑星。原則、現地文明への能動的接触、及び内政干渉を禁ずる』

 UGEが定めた、絶対の規則。未知との遭遇は、常に最大の脅威として扱われる。見つかってはならない。干渉してはならない。それが、アレンに課せられた鉄の掟だった。


 だが、運命は彼に平穏な観察者であることを許さなかった。

「外部センサーに複数の生命反応。うち二つはヒト科に類似。その他は……不明。現在、戦闘状態にあると推測されます」

 アレンはブリッジのメインスクリーンに、外部のホログラム映像を投影させた。

 そこに映し出されたのは、悪夢のような光景だった。

 鬱蒼とした森の中。華やかなドレスを泥と土で汚した、美しい金髪の少女が、必死の形相で走っていた。彼女を守るように、全身を銀色の鎧で固めた騎士が、巨大な剣を振るい、迫りくる敵に応戦している。

 その敵は、醜悪な緑色の肌をした、豚のような顔の人型の怪物だった。数は十を超え、錆びた斧や棍棒を手に、下卑た咆哮をあげながら二人をじりじりと追い詰めていた。騎士の動きは明らかに鈍り、その鎧には無数の傷が刻まれている。もはや、絶体絶命だった。

 アレンは唇を噛んだ。

 プロトコルは、不干渉を命じている。彼らが何者で、この戦闘が何を意味するのか、情報があまりにも少なすぎる。下手に介入すれば、この世界の生態系や文明に、予測不能な影響を与えかねない。それは、外交官として最も避けるべき行為だ。

 少女の悲鳴が、スピーカーから微かに聞こえた。騎士の膝が、ついに地につく。緑色の怪物が、とどめを刺さんと、汚れた斧を振り上げた。

 ――祖父なら、どうしただろうか。

 規則を破り、異端と呼ばれても、自らの信じる真実を追い求めた男。彼は、目の前の命を見捨てただろうか。

「……ソラリス。非殺傷兵器、ソニック・パルスの準備を」

「アレン。規約違反です。我々の行動は――」

「僕の船だ。そして、僕の責任だ」

 アレンの声は、静かだったが、揺るぎない決意に満ちていた。

「僕は、僕のルールでやる」

 アレンの命令を受け、《オデュッセウス》の船体下部から、不可視の音響パルスが放たれた。それは、特定の生物の三半規管のみを狙って強烈に揺さぶる、UGEの対暴徒用兵器だ。

 森の中で、変化は一瞬だった。斧を振り下ろそうとしていた緑色の怪物をはじめ、全ての怪物が、何が起こったのかも分からぬまま、苦悶の声をあげてその場に崩れ落ちた。嘔吐し、痙攣し、完全に戦意を喪失している。音もなければ、光もない。ただ、結果だけがそこにあった。


 森は、静寂を取り戻した。

 生き残った騎士――ガレイドは、呆然と目の前の光景を見つめていた。何が起こったのか、全く理解が及ばなかった。魔術か? だが、詠唱は聞こえなかった。マナの動きも感じなかった。音も無く、形も無く、ただ敵だけが無力化された。そんな奇跡、あるいは呪いを、彼は知らない。

 王女リアーナもまた、恐怖に目を見開いていた。彼女が感じたのは、安堵ではなかった。既知のいかなる力とも異なる、理解を超えた現象への、根源的な畏怖だった。

 ガレイドは、震える手で剣を握り直し、ゆっくりと立ち上がった。彼の目は、力が放たれたと思われる、森の奥深く――木々の影に隠れた、巨大な黒い塊を睨みつけていた。

「……何者だ」

 その声は、感謝ではなく、純粋な敵意と警戒に満ちていた。

「姿を現せ、邪悪なる魔術師め!」

 救ったはずの相手から突きつけられた、鋭い剣先と、拒絶の言葉。

 アレン・クロフォードは、この瞬間、悟らざるを得なかった。彼の常識、彼の技術、彼のルールが、この世界では何一つ通用しないことを。

 彼の最初の外交は、最悪の形で、その幕を開けようとしていた。

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