第2話 化け物の影と、灯る火種
月が高く昇る夜。
小さな村の井戸のそば、風に揺れる草木がリオンの耳に囁くようにさざめいていた。
“獣憑き”――人に化け、村に紛れ込む魔物の噂は、都市の裏通りでは時折耳にする話だった。
だが、リオンの記憶の中でも、それと交戦したのは一度きりだ。
そいつは人の皮を被り、心を覗き、疑心を煽る狡猾な存在だった。
(けっこう、面倒な相手だったな……)
あの時は仲間がいた。
仲間がいて、誰かが背中を預けてくれていた。
でも、今は――
「……俺ひとり、か」
リオンはふと、自分の右手を見下ろす。
以前は魔力の刻印が輝いていたその手には、今はただ土と汗のにおいが染みついていた。
(それでも、やるって決めたんだ。――俺の意思で)
ぎし、と草を踏む音に振り返ると、リーネが現れた。
彼女の手には、古びた地図と紙束があった。
「ごめん、待たせた。――これ、事件が起きた場所のまとめ。村の子供たちに聞き取りして、記録しておいた」
「……ありがとう。頼りになるな」
「当たり前でしょ。私は勇者じゃないけど、村を守るつもりはあるから」
リーネの目は真っ直ぐだった。
その光に、リオンはかつて仲間の少女が向けてきた眼差しを思い出していた。
(いや、比べるもんじゃないな)
「目撃情報、全部“南側の森沿い”だな。村の外周に近い場所ばかりってことは……」
「たぶん、外から紛れ込んでる。村の中にずっと潜伏してるんじゃなく、行き来してる可能性が高い」
「じゃあ、狩るには……」
「今夜が最適」
リーネの言葉に、リオンは頷いた。
夜の森は静かで、気配に満ちていた。
リオンは手にした農具――長柄の鋤(すき)を肩にかけ、木々の影の間をゆっくりと歩く。
魔力はない。刻印もない。
けれど、彼の体に刻まれた“経験”は鈍っていなかった。
足元の葉を踏み鳴らさぬよう、風の流れを読む。
夜鳥の鳴き声に交じる、わずかな“音の異物”。
(――いた)
低木の陰、逆光に紛れて立つ影。
それは人の形をしていた。
――だが、人ではなかった。
黒く、艶やかな皮膚。
体表にぬめるような光を宿し、動きは異様に滑らかで……。
「よお。お前が“獣憑き”ってやつか?」
リオンの声に反応し、それはゆっくりと首を傾げた。
その顔は、人のものだった。
「なんだ、お前は?」
声も、まるで人間だ。
だが、笑顔がずれていた。目の奥に、感情がなかった。
“人を模す”――それこそが、この魔物の恐ろしさだった。
「お前が村の子供を襲ったのか?」
「……わからない。人間は皆、似ているから」
その言葉を聞いた瞬間、リオンの心に冷たい怒りが湧いた。
人の命を、“似ている”だと?
「なら、ここで終わりだ。二度と誰も傷つけさせない」
「戦うのか? お前の手には、魔剣も、加護もない」
「いらないさ。俺はもう勇者じゃない。だからこそ、斬れるものがある」
言うが早いか、リオンは鋤を大きく振るった。
刃ではなく、重量と勢いで相手を打ち据える、ただの道具――。
だが、その一撃には“命を守る者”の本能が込められていた。
「――っ!」
獣憑きが瞬時に跳ねるように避けた。
鋤が地面を穿ち、土と木の根が跳ね飛ぶ。
リオンは構えを崩さず、呼吸を整えた。
「動きは早いな……けど、読める」
相手は、人間の筋肉と骨格を模している。
だからこそ、限界も、パターンも見抜ける。
かつて、魔王の眷属たちと死闘を繰り広げたその目と勘が、今なお冴えていた。
「さあ、こいよ。終わらせてやる」
――それから数分間。
時が引き延ばされ、世界の色が滲むような濃密な戦いだった。
鋤の一撃が幹を裂き、獣憑きは枝の影を縫うように走り、飛び、牙を剥いた。
その動きは獣というにはあまりに賢く、人というにはあまりに醜悪だった。
「は、っ……!」
リオンは息を切らし、左肩を抑える。
避けきれなかった一撃が裂いた布と皮膚。血がにじみ、鋤を握る手が震える。
けれど、それでも。
――逃げたいとは思わなかった。
あの日、魔王城の深奥で。
背後に仲間を庇って剣を振るったあの時。
“世界のため”だと信じて戦った、あの選択。
(……違う、違うんだ)
剣を抜いたのは、あの時も――今も、自分の意志だった。
でも、あの頃の俺はそれを誰かのせいにしてた。
“勇者だから仕方ない”と、戦う理由を責任にすり替えていた。
「俺は……もう、逃げねえ!」
鋤を振り上げる。
しかし獣憑きはその隙を突いて、猛然と飛びかかってきた。
――まずい。間に合わない。
その刹那、リオンの脳裏に浮かんだのは、朝の農場で土をいじるリーネの姿だった。
(こいつが村に入れば――リーネも、子供たちも、セレスも……)
鋤を手放し、素手で獣憑きの首に飛びついた。
咆哮と共に地面に倒れ込み、背中を枝に叩きつけられる。
だが構わず、腕に全力を込めて締め上げる。
「うおおおおッ!!」
骨が軋み、獣憑きの肋骨がひしゃげる音がした。
血が混じった息を吐き、獣憑きが暴れる。
リオンの顔にも爪が食い込み、視界が赤く滲んだ。
だが、その時。
遠くで誰かが叫んだような気がした。
「リオンーッ!!」
リーネの声だ。
(ここで倒れたら、また誰かが泣く。……もう、あんな想いはさせない)
全身を駆け巡る痛みを無視して、リオンは最後の力で獣憑きを地面に叩きつけた。
すかさず鋤を拾い上げ、全体重を乗せて首を――
「おおおおおッ!!」
骨が砕ける音が響き、体液が飛び散る。
――沈黙。
空気が、戻ってきた。
リオンはその場に膝をつき、泥に手をついた。
呼吸が浅く、肺が焼けるようだ。
だが、確かに――勝った。
「……っ、はぁ……っ、ふぅ……」
自分の荒い息と、虫の声だけが耳に届く。
何もかも、ギリギリだった。
それでも、守れた。
自分の手で。
リオンは、深く息を吐きながら、木に寄りかかっていた。
地面には、黒い体液を垂れ流して転がる“獣憑き”の亡骸があった。
「はぁ……さすがに、衰えてるな……」
魔法もない、装備もない。
けれど――。
「……勝った、か」
その時。
「リオン!」
リーネが駆けてきた。
手には松明を持ち、顔には安堵と驚きが混じっている。
「お、お前ひとりで倒したのか……!?」
「まぁ、なんとかな」
リオンは軽く笑ったが、その体は既にあちこちに傷を負っていた。
「バカ……もう。……本当にありがとう」
リーネはそっとその手を握った。
その手は荒れていて、温かかった。
そしてリオンは、ふと思った。
(ああ、俺は――この手で、まだ誰かを守れるんだな)
翌朝、村は静かにざわついていた。
「昨夜の“獣憑き”が仕留められたって……」
「誰が? まさか、あの流れ者の青年が?」
「ほんとかよ……だって、あの人ただの農作業初心者だったろ?」
村人たちの噂は、朝の光と共に広まっていた。
リオンはというと、すでに農場に立っていた。
いつもと同じ作業着、手には鍬。
ただ、腕に包帯が巻かれていた。
「……おはよう、リオン」
声をかけたのは、昨日の診療所の女医、セレスだった。
「包帯、昨日より緩んでる。張り直すから、ちょっとこっちに来て」
「……お構いなく。まだ仕事の途中なんでね」
「その仕事ぶりが、命を危うくするの。あんた、倒れる寸前だったって聞いたけど?」
「倒れてないよ。ギリギリ立ってただけさ」
「それを“倒れる”って言うの」
そう言いながら、セレスはリオンの腕を手早く巻き直し、清潔な包帯を結んだ。
その手つきは無駄がなく、優しかった。
「……ありがとな」
「感謝するなら、今夜はちゃんと休んで。村は、ようやく平穏を取り戻しつつある。あんたが、火種を消してくれたから」
「火種ね……俺には、火が灯った気がするけどな」
「灯った?」
「誰かを守るって気持ち、思い出したよ。久しぶりにさ」
セレスはその言葉にわずかに目を細めた。
「……そう。なら、よかった」
その日の夕暮れ、村長の家に招かれたリオンは、村の長老たちに囲まれていた。
「獣憑きを倒した件、本当に感謝する。村の誇りだ」
「いや……俺はただ、自分の判断で動いただけです」
「それで十分だ。だからこそ、お願いがある」
リオンは、村長の真剣な目を見た。
「この村に……住んでくれないか?」
「……!」
「ここは外れの土地で、外との繋がりも希薄だ。だが、それゆえに何か起きた時、自分たちの力だけではどうにもならない」
「つまり、村の“守り手”に……?」
「肩書きは要らん。ただ、いてくれるだけでいい。そこにいる、それだけで皆が安心できる存在に、なってほしいんだ」
リオンは、静かに考える。
かつては“勇者”という冠を押し付けられ、その重さに潰されかけた。
今、差し出されたのは、“ただ、そこにいるだけでいい”という居場所。
誰にも命じられず、誰にも縛られず。
ただ、必要とされること。
「……じゃあ、一つ条件がある」
「条件?」
「俺はもう戦士でも、勇者でもない。ただの農夫として暮らす。必要なら剣を取るが、それ以外は、のんびり過ごさせてもらう。それでも良ければ」
村長は、口元を緩めて笑った。
「いいとも。歓迎するよ、リオン。――いや、“ただのリオン”として」
夜、リオンは村の通りを歩いていた。
小さな灯りが点在し、家々の窓からは夕餉の匂いが漂ってくる。
「――あ、いたいた!」
走ってきたのはリーネだった。
「おめでとう。村長から聞いたよ。正式に、ここの村人になるって」
「ああ、そうなった」
「ね、だったらさ、まず“歓迎の儀式”しなきゃ」
「儀式……?」
「明日の朝、納屋の掃除と、牛小屋の手入れ。あと、畑の土起こし」
「うん、つまりただの重労働だねそれ」
「“ようこそ村へ”って意味を込めてね」
二人は顔を見合わせ、笑った。
遠い過去で仲間たちと交わした笑いを思い出しながら、リオンは自分の口元が自然と緩んでいくのを感じていた。
だが、その夜の深更。
森の奥、誰も踏み込まぬ湿地の中――。
腐った木々に囲まれ、異様な“瘴気”が立ち上っていた。
その中心で、何かが蠢いている。
黒い瘴煙と共に立ち上がる人影。
「……失敗作が狩られたか。だが、“彼”が生きていたとはな」
影の声は低く、獣のようにうねり、空間を歪ませる。
「勇者リオン・グラヴェル――死に損ないのくせに、まだ生き延びるとは」
その名を、まだ知る者がいた。
そして、それは“因縁”の幕開けでもあった。
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