第3話 かりそめの平穏と傷跡

 村の朝は、まるで水面に広がる波紋のように静かだった。

 鶏の鳴き声が、まだ眠気の残る空に響き、朝露を含んだ土の匂いが肺に染み込む。


「おい、リオン、あんた昨日の傷、もう平気なのかよ」


 畑の端に現れた声の主は、リーネだった。

 腰まである栗色の髪をざっくりと一つに縛り、くたびれた麻の作業着に小麦粉のような土が点々とついている。頬にはほんのり日焼けの色。健康そのものといった姿だが、眼差しには芯の強さが宿っていた。


 麦の束を肩に担いだまま、彼女はリオンを見下ろすように覗き込む。


「平気、っていうか……まあ、鈍ってなくてよかったって話だな。動けば痛いが、動かなきゃ鈍る」


 リオンは低く呟きながら立ち上がり、軽く肩を回した。

 黒に近い焦げ茶の髪が、寝癖のまま跳ねている。細身だが筋肉の線は鋭く、まるで鞘に収めた刃物のようだった。顔立ちも整っているはずなのに、どこか“空っぽ”に見えるのは、その目が過去の底を覗いているせいか。


「へぇ、らしいこと言うじゃん。ま、使い物にならなくなるよりマシか」


「俺を何だと思ってる……いや、そういう顔するな。荷物持つよ、貸して」


「いいっての、私の仕事だし」


 そう言いながらも、彼女はリオンのすぐ横に束をどさりと落とした。

 麦の穂がふわりと舞い、草のにおいが立ち上る。リオンはその匂いに小さく鼻を鳴らした。


「……悪くないな、こういうのも」


「へ?」


「いや、ただ、こうして土のにおいを嗅ぐのがさ。朝に起きて、重たいもの担いで……誰にも命じられずに、それで“今日を生きてる”って思えるっていうか」


「……ほんっとに変なやつ」


 リーネは笑いながら言ったが、その横顔にはどこか安心したような色が浮かんでいた。

 かつて“勇者”だった――と、彼女だけが気づいている男が、今はこうして泥にまみれて笑っている。その不思議さと安堵が、胸の奥に静かに沈んでいく。


「それにしても」


 リオンは麦束の端を拾いながら、ポツリと続けた。


「ここに来てから、喋り方が妙にバラつく気がしてな」


「バラつく? ……確かに、敬語っぽくなったり、ぶっきらぼうになったり……あんた元からそうだったんじゃない?」


「かもな。……もしかしたら、本来の口調がわからなくなってるのかもしれない」


「記憶、やっぱり?」


 リオンはしばし黙って、朝日を見上げた。

 朝露に光が差し、濡れた土の香りがまた濃くなる。


「“俺”ってのがどんなやつだったか、あやふやな気がするんだ。戦い方も、動きも、体が覚えてる。でも、それをしてる“自分”の中身が、抜け落ちてる感覚」


「……そっか。そりゃ、変な口調にもなるよね」


 リーネは柔らかく笑って、そのまま背中を向けて歩き出した。

 リオンも、それに続くようにゆっくりと足を進める。





 昼下がり。

 広場の大きな木の陰、年季の入った木製のベンチに腰かけて、リオンはパンを引きちぎっては口に運んでいた。


 その周囲では、子供たちが駆け回っている。


「ねえリオンおじちゃん! 昨日のケモノ、どうやってやっつけたの!?」


 声を上げたのはジーニャ。

 日焼けした顔に泥を塗り、頬をふくらませて立っている。栗色の髪を二つに縛った元気な八歳。おしゃまな性格で、口調は一丁前だが、すぐ転ぶ。


「おじちゃんはやめろ。あと、あれは事故みたいなもんだ。運が良かっただけ」


「えー、つまんなーい!」


 彼女の不満の横で、弟のエルムは小さな木の棒を片手に“獣憑きごっこ”を始めていた。

 薄茶のくせ毛をふわふわ揺らしながら、くるくると棒を振り、わざとらしく倒れる。


「ぐはっ……やられた~……」


 五歳の弟は言葉数は少ないが、真似事に夢中になって遊んでいる。


 その様子に、リオンはつい吹き出した。


(……ああいうのを守るために、剣を振ったのか。俺は)


 けれど、胸のどこかに、ぽつりと影が差す。


(違う。あの時は……ただ“戦うしかなかった”んだ)


 ひとりごとのように、右手を見つめる。

 無意識に強く拳を握りしめる。その手の甲には、今はもう何もない。

 かつてそこに刻まれていたもの――“勇者の刻印”は、とうに失われたはず――





 一方、村の診療所。

 昼の陽が斜めに差し込む室内には、薬草の乾いた香りが漂っていた。


「セレス、あの子の傷……どうだったかい?」


 湯呑を両手で包むようにして、ナズナ婆が尋ねた。

 くしゃくしゃの白髪に布を巻き、座布団に小さく収まるその姿はまるで湯気の立つ薬壺のようだ。目だけが、妙に澄んでいる。


「鋭い爪傷でした。相当深かったはず…けれど瘴気も毒性もほとんど反応なし。正直、私の常識じゃ説明できないわ」


 セレスは落ち着いた声で応じた。

 白衣の袖口を整えながら、書き留めた診療記録を眺めている。


「そうかい……それにしちゃあ、あの子、顔色ひとつ変えずに歩いてたねぇ」


 ナズナ婆は、湯呑をくるくると回しながら、ぽつりと続けた。


「どうもあの子、魂の中に――なんてぇか、“過ぎたもの”をしまい込んでる気がするんだよ」


「過ぎたもの、ね……」


 セレスは眉をひそめた。

 老人の直感を無下にするほど、彼女も理屈だけの人間ではない。


「身体はここにいてもね、魂の半分は、まだ向こう側にあるような……そんな感覚がするんだよ、あたしゃ」


 ナズナ婆は、薬棚の方をぼんやりと眺めながら、ゆるりと笑った。


「……記憶が曖昧なのも、それが理由?」


 セレスの声には、わずかに思案の色がにじんでいる。


「さあて、どうかねぇ。自分で思い出したくないのか、忘れちゃった方が楽だから隠してるのか……それとも、思い出しちまったら、もうここには戻ってこられないと知ってるのか……」


 ナズナ婆の目が、ふっと細くなった。


「どれでもない気もするけどね。あの子、いまを“ぎゅっ”と握ってる。まるで、それが綱の先っぽみたいにさ」


 セレスは黙ってそれを聞いていた。

 そして静かに窓の方へ視線を移した。


 枝先の葉が、風に揺れていた。

 光の中、ひとつの影がゆらゆらと揺れている。





 夕暮れの風が草を揺らす。

 丘の上に座ったリーネは、腕を膝に預け、遠くの村を眺めていた。

 働き終えた村人たちの声が、霞のように届いてくる。


 だが、リーネの心は、そこにいなかった。

 思い返していたのは、あの日――リオンが来て二日目の夜に狼が現れた――あの夜のことだった。


 信じられなかった。

 いや、正確に言えば、わかってはいけなかったのかもしれない。


(あれは……“あの構え”だった)


 襲い来る狼を前に、リオンは迷わず一歩を踏み出した。

 村人たちが逃げた中で、彼だけが動いた。


 土の上に足を据え、わずかに膝を落とし、息を吸い――

 獣の牙を見据えた、あの眼差し。


 あれは幼い頃、帝都で見た演武の姿と同じだった。


(忘れるわけがない。あのとき見た“勇者候補”たち。選ばれし者の動き)


 そして――


(ほんの、一瞬だったけど)


 あのとき、彼の右手が微かに光った。

 赤い光。燃え立つような脈動。

 手の甲に、まるで生き物のような“紋様”が浮かび上がって――そして、すぐに消えた。


 誰も、気づかなかった。

 リオン本人ですら、それを自覚していない様子だった。


 けれど、リーネだけは見ていた。

 あれは、“勇者の刻印”だった。


(なんで……あんたが、こんな村に?)


 彼は自分のことを語らない。語れないのかもしれない。

 名前すら、偽名なのか本名なのかすらわからない。話し方もあやふやで……


 でも、体の動きと、視線と、あの“刻印”がすべてを物語っていた。


(リオン……あんたは、勇者だったんだよ)


 だからこそ、今の姿に――

 畑を耕し、パンをちぎって子供に笑う姿に、リーネの胸はどうしようもなく締め付けられる。


(……目的があって、ここに来たわけじゃないのかもしれない)


 けれど、今は確かに“ここ”にいる。


 だからこそ、思う。


(どうか――あんたが、また“呼ばれませんように”)


 再び、刻印が目覚めることのないように。

 もう一度、“あの場所”に戻らないで済むように。


 そんな祈りを、リーネは知らず知らずのうちに抱いていた。





 翌朝。


 風は昨日より湿っていて、空の端には細い雲がたなびいていた。

 リーネは、昨日の作業で刃こぼれした鍬を抱えて、鍛冶場へ向かう途中だった。


 だが、道の途中――鼻をつくような異臭に足が止まった。


(……焦げ臭い?)


 微かな煙の匂い。草ではない、何か別のもの――肉が焼けるようなにおい。

 さらに、鼻をつんと突く金属臭。血の匂い?


(まさか……)


 周囲を見回し、獣道の方へ足を進める。


 踏み分けた先。

 その地面には、黒く焼け焦げた跡が広がっていた。


「……なに、これ」


 地を這うような、不自然な円状の焦げ痕。

 周囲の草が炭のようになり、焦げた根の下には引きずったような跡。


 だが、それは“獣憑き”のものとは思えなかった。

 重さと湿り気を含んだ奇妙な軌跡。


(……誰かが……何かを引きずってた?)


 ざらり、と喉が鳴った。


 昨日の戦いで終わりじゃなかったのか。

 いや、それとは“別のもの”がいるのかもしれない。


「セレスに知らせなきゃ……」


 そう呟いた瞬間――


 背後の茂みで、「ガサ」と音がした。


「……っ!」


 咄嗟に振り返り、鍬を構える。

 刃は鈍っているが、それでも構えだけは崩さない。


 だが、気配は遠のいていく――

 なにかの気配だけが、草の奥でゆっくりかき消えていく。


 完全に気配が消えた。

 リーネは、ようやく息をついた。


 そのとき、足元の端に――焦げた布きれのようなものが落ちているのを見つけた。


 それは、まるで――誰かが着ていた外套の一部のようだった。

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勇者だって死に損なったならあとは自由で良いじゃない 草笛亘理 @ferumana

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