勇者だって死に損なったならあとは自由で良いじゃない

草笛亘理

第1話 死に損なった勇者、自由を知る

「……死んだ、と思ったんだけどな」


 仰向けに倒れたまま、空を見上げて青年――いや、かつて『勇者』だった男は呟いた。


 視界に広がるのはどこまでも高く透き通る青空と、ひんやりとした草の匂い。地面の感触は柔らかく、血の臭いもなければ、瓦礫の感触もない。何より、痛みがない。


「剣で貫かれて、魔王と刺し違えて、最後に笑った気がするんだけどな……」


 彼の名前はリオン・グラヴェル。異世界に召喚され、『魔王を倒すため』に、国の希望として戦い続けた青年。


 幾度の戦いを超え、仲間と共に王都を解放し、そしてついに魔王の首を取りに行った。あの日、最後の一撃は確かに自分が放ったはずだ。


 だが、目覚めた今――。


 周囲には誰もいない。かつての仲間も、敵も、王も、神の声すら聞こえない。


「……あれ?」


 リオンは、何かに気付き、ゆっくりと自分の体を起こした。


 そこに映ったのは、金の装飾が施された胸当てや、聖なる加護を受けた剣ではない。


 ただの粗末なシャツとズボン。裸足に近い足元。……そして、己の手の甲。


 「……刻印、ない」


 召喚された勇者にのみ与えられる神の刻印。それが、きれいさっぱり消えていた。


 リオンはふらふらと立ち上がり、辺りを見回す。森の外れにある丘の上。見知らぬ場所だった。


 それでも、彼の心にはある種の清々しさがあった。


「……死に損なったんだ。だったらもう……戦わなくていいよな」


 呟きながら草をちぎり、風に吹かせてみる。指先の感触がやけにリアルだった。


「よし、決めた。――今日から俺は自由だ」


 彼の言葉に、誰が答えるわけでもなかったが、風がそれを祝福するようにそっと頬を撫でた。


 数時間後。


「おい、兄ちゃん。まさかとは思うが……その格好で、この辺りをうろついてたのか?」


 森の外れにある小さな村の入り口。木製の門の前で、腕を組んだ屈強な男が怪訝そうに眉をひそめていた。


「うん。森で目覚めてさ。腹が減ったからとりあえず歩いてたら、ここに着いたって感じ」


「……物騒な時期に、ずいぶんのんきなもんだな。名前は?」


「リオン。姓は……もういいや。リオンだけで」


「……怪しいが、まぁいい。村長に話を通してやる」


 男は短く息を吐き、村の中へと案内してくれた。


 リオンは歩きながら周囲を見回す。


 石造りの家、畑、洗濯物を干す人々、そして子供たちの笑い声。


 どこか懐かしく、けれどかつての王都では感じられなかった温もりがそこにはあった。


(……もう、剣を振るわなくていい。あれがどれだけ重かったか、今になってようやくわかる)


 自分が持っていたのは「勇者」という称号であって、それを失った今、自分にはただの空っぽしか残っていない――そう思っていた。


 だが。


(空っぽって、案外気楽なんだな)


 歩きながら、リオンはふと笑った。


 村長の家に通され、経緯を説明した後。


「記憶喪失、ねえ……まあ、珍しくはないよ。帝都から逃げてきた奴らにもよくいる。何か、背負いきれない過去があったんだろうさ」


 老齢の村長はそう言って、リオンを特に問い詰めるでもなく、静かに受け入れてくれた。


「この村にいる限り、名前なんぞどうでもいい。お前が悪ささえしなけりゃ、それで充分だ」


 それは、勇者として扱われてきたリオンにとって、はじめての『ただの一人の人間』としての扱いだった。


「ありがとう……ございます」


 深く頭を下げたその姿に、村長はふっと目を細めた。


「しばらくは宿に泊まれ。その間、働いてくれるなら食事も出してやる」


 こうしてリオンの、第二の人生が――いや、「本当の人生」が、始まった。


 次の日の朝。


「ほら、手ぇ止めない!」


 農場で鍬を振るいながら怒鳴るのは、村一番の働き者として知られる女――リーネだった。


「へいへい、やってますよぉ……っと!」


 リオンは額の汗をぬぐいながら、乾いた笑みを浮かべた。


 土を掘り起こし、苗を植え、陽の下で汗をかく。


 剣を振っていた頃とはまったく違う疲れだったが、どこか心地よかった。


「……なーにが“元騎士かも”だよ。鍬もまともに振れないくせに」


「そりゃあ、剣と鍬じゃ違うでしょ」


 リーネは呆れ顔をしながらも、どこか安心したように微笑んだ。


「まぁいいさ。今日の分終えたら、あんたに紹介したい人がいる」


「紹介?」


「うちの診療所に住んでる、おかしな女医さんさ。ちょっとあんたに似てるとこがあるんだよね、放っておけないっていうか……」


「へぇ……?」


 そう言って歩き出すリーネの背中を見つめながら、リオンは少しだけ、胸の奥が騒ぐのを感じた。


(この村で、俺は――何をすべきなんだろう)


 そう、まだ何も見つけてはいなかった。ただ、生きているだけだった。


 けれど。


(生きているなら、探せる。戦わずに済むなら、誰かを救ってもいい)


 そう思えたことが、リオンにとって何よりの“自由”だった。


リーネに案内されたのは、村の外れにある小さな診療所だった。


 木造の建物は古びているが清潔で、窓辺には乾かされた薬草が並べられ、どこか懐かしい草の香りが漂っていた。


「……おーい、セレス。例の変なやつ、連れてきたよー」


「変なやつってひどくない?」


 リオンが軽口を返すと、奥からコトリと瓶の音がして、ゆっくりと一人の女性が姿を現した。


 彼女は、白衣のような上着を着た痩せ型の女性だった。栗色の髪を一つに束ね、瞳は薄いグレー。年齢はリオンと同じか、少し上か。


 だがその目――どこか、何かを見通すような、冷ややかで、それでいて優しさを宿す光を持っていた。


「……あなたが、迷い人?」


「ええ、まあ。森で目覚めて、何も思い出せなくて――って設定でいこうと思ってます」


「……そう。じゃあまずは手を見せて」


 セレスは躊躇なくリオンの手を取り、その指先を確かめ、掌を撫でる。爪の下、手のひらの硬さ、筋の通り。


「戦ってた手ね。剣か、槍か。少なくとも農民の手じゃない」


「……よく分かりますね」


「あなた、剣の使い手でしょ。体の動きがそう言ってる」


 セレスの言葉に、リオンは肩をすくめる。


「そりゃまあ。……でも今は、鍬の使い手だよ」


「……そう。いいんじゃない、それで」


 セレスはそれ以上何も訊かず、ただ机の引き出しから茶色い紙袋を取り出すと、無造作にリオンへ放った。


「これ、今夜分の胃薬。急に働いてるから筋肉痛より先に胃がやられるわよ。飲む前に飯食べなさいね」


「ありがとう……」


「いいの。あんたみたいな変なの、嫌いじゃないから」


 微かに微笑んだその表情に、リオンは一瞬――遠い昔、誰かに似た顔を見た気がした。


 それが誰だったのか、思い出す必要はなかった。ただその優しさに、胸が温かくなるのを感じた。


 日が落ち、リオンは宿の部屋で薬を飲み干すと、ベッドの端に座ってぼんやりと夜空を眺めていた。


 満点の星空が広がる世界は、剣と魔法が支配する異世界。


 かつて、自分はその中心にいた。


 だが今、自分はただの一人の男。何の役目も、使命もない。


「……それでも、だ」


 リオンはぽつりと呟く。


「もし、また誰かが泣いてたら。俺は、剣を抜くのかもしれないな」


 その時。


 コツ、コツ、と階段を上がってくる足音がした。


 宿の扉が軽く叩かれ、誰かが声をかけた。


「リオン、起きてる?」


 それはリーネの声だった。


「起きてるよ。どうした?」


「ちょっと、外まで。……話があるの。今なら誰にも聞かれないし」


 妙に真剣な口調に、リオンは頷いて立ち上がった。


 連れて行かれたのは、村の外れにある枯れ井戸のそばだった。


 夜風が肌に優しく、虫の音が静かに響く。


「……ねえ、リオン」


「ん?」


「“本当は勇者だった”とか、そういうの……ある?」


 その問いに、リオンは目を瞬かせた。


「……なんで、そう思う?」


「第六感ってやつ? あと、あんたの背中見てて思った。戦い方もそう。何より、村の誰も気付かないのに、あたしだけ気付いたってことは――きっと、そうなんでしょ?」


 リオンは少しだけ目を伏せて、風を感じながら静かに答えた。


「……うん。多分、そうだったと思う。剣を振って、命を懸けて、何かを守ろうとして……たぶん死んだ。でも死ねなかった。だから今、ここにいる」


 リーネは少しだけ俯いて、深呼吸をした。


「そっか。……なら、やっぱりお願いする」


「……お願い?」


「この村に、最近“獣憑き”が出てるの。人じゃない、人に化けた魔物。子供が襲われた。幸い命は助かったけど……村の中に潜んでるかもしれないの」


 リオンの表情が変わる。何かが、胸の奥で点火されたような感覚。


「俺に……その退治を頼みたい、ってことか?」


「そう。でも、これだけは言う。無理だと思ったら断って」


「……断ったら?」


「私は私で、やれることをやるだけ。それだけよ。けど、あんたの目を見て、賭けたくなったの。――本物だって思ったから」


 静かに、しかし強い目でリオンを見つめるリーネ。


 彼女の想いは、かつて自分が持っていた“正義”の形に近いものだった。


 それに、リオンは――。


「分かった。俺がやる」


 即答だった。


 言葉より先に、体が反応していた。まるでそれが当たり前のように。


「ありがとう。……でも、お願いだから、無茶はしないで」


「大丈夫。今の俺は、勇者じゃない。ただの“リオン”だから。誰かに命じられた戦いじゃない。俺が、俺の意思で、剣を振るうだけだ」


 そう言って、リオンはかつて神から授かった剣の代わりに、リーネが差し出した一本の農具を手に取った。


 その重さは、かつての聖剣とはまるで違う。


 だが、今の自分にとっては――この“自由な剣”のほうが、よほど意味があった。

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