第19話 美咲の崩壊

山下美咲は、駅の「鏡の回廊」に迷い込んでいた。

左右の壁に並ぶ無数の鏡。

それぞれに映る彼女の顔は、どこかが違っていた。

泣いている顔、怒っている顔、他人の顔を模した表情……そして、鏡の中に“顔のない自分”が立っていた。


「……これは、私……なの?」


歩みを進めるごとに、記憶が逆流しはじめた。

大学の講義、片桐とのやりとり、都市伝説に夢中だった頃。

だが、それらの記憶に違和感が差し込む。


片桐が初めて「0番線」を語った日の記憶。鏡は、その光景を写していた――だが、片桐ではなく、玲央がそこにいた。


「……え?」


鏡の世界では、人間関係が再配置されていた。

誰が誰を知り、どんな言葉を交わしたか――都市が“記憶を書き換える”ことで、顔が付け替えられている。


美咲の顔が鏡に映らなくなった。

かわりに、“顔の候補”が列を成していた。


>「選んでください。あなたの過去を定義する顔を」


壁から音が漏れる。

皮膚を剥がす音、誰かの涙、笑い声、告白――それらが混じり合い、美咲の脳裏を掻き乱す。


「私は……誰?」


鏡の向こうで、片桐の姿がぼんやりと浮かんだ。

彼は叫んでいる。


>「戻ってこい、美咲!君の顔は……“あれ”に渡しちゃいけない!」


その叫びに、美咲の顔に裂け目が走る。

頬がゆっくりと剥がれ、誰かの微笑みに置き換わろうとしていた。


だが、美咲は抵抗した。

自らの記憶の中から“片桐に笑いかけられた瞬間”を取り出し、その感情をぎゅっと胸に抱いた。


鏡が爆ぜた。


「私は、美咲。私の顔は、片桐との記憶でできてる」


彼女の周囲で崩壊を始めた鏡の破片が、都市の配列を撹乱させていた。


美咲は、自我の崩壊を拒んだ。


そして、ひとつだけ残された鏡に、“今の自分”の顔が静かに映っていた。


それは、涙を流しながらも微笑む顔だった。


駅のアナウンスが小さく、穏やかに告げる。


>「記憶の照合完了。顔、維持されました」

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