《ノマの記憶》~僕だけ繰り返す力を持っていた件~
須賀 優
第1話 意味をなぞるだけの手
001
人類が《言葉》を得て数千年。
《文字》を手にしたのはその後で、
《文字に意味を宿す力》を得たのは──たった数百年前のことだった。
《部首核(ラディカル・コア)》──
それは、漢字の“根”に潜む意味の力を心身に抱え、
現実に作用させる異能として開花するもの。
そうして、言葉が力になる時代が生まれた。
高層ビル群に輝くネオンも、街を巡る掲示板の一文字一文字も、すべてが“意味”を持つ。
誰もが無意識のうちに、文字に込められた力を感じながら生きている。
──だが。
この都市には、“意味を持たない”者もいる。
部首核を持たず、異能を使うこともできず、ただ“文字を書くだけ”の存在。
彼らは、皮肉を込めてこう呼ばれる。
《筆民(ヒツジン)》──
意味を宿せない者。
意味をなぞるだけの者。
意味を持たぬ、無力な書き手たち。
そして、俺──カナメもそのひとりだった。
……少なくとも、そう思っていた。
002
その日も、漢都(カント)の空は重たかった。
曇天の切れ目から差し込む陽の光が、ビルの谷間に沈むようにして路地裏へ届く。
ここは
人目を避けて生きる筆民(ヒツジン)と、身を潜める落ち武者たちが、互いに顔を伏せて通り過ぎる。
──その路地裏の一角に、カナメはいた。
崩れかけたアパートの軒下に、古びた机と壊れかけの丸椅子。
机の上には墨壺と筆、チラシの裏紙、使いかけの木札。
手書きの“看板”すらない。それでも、口コミで情報を拾った客はちらほらやってくる。
「……書くよ、文字。言われた通りに。
ただし、“意味”を込めろって注文は高くつくけどな。」
カナメは、いつものように、つまらなさそうに口を開いた。
客は年のいった男だった。煤けた帽子に、血の滲んだ包帯。
左腕に巻かれた布の中に、焼け焦げた護符のようなものが覗く。
「娘の名を……書いてくれ。“この手が元に戻るように”って、祈りを込めてな」
「それ、もう“祈祷屋”の仕事だろ。……うちは、“写す”だけなんだ」
カナメは軽口を叩きながらも、筆を取り、慎重にその名前をなぞり始めた。
筆先が触れた瞬間、墨がじわ、と紙へ沁み込む。
その速度と滲み具合を、彼は無意識に“繰り返し”計っている。
彼の手は、驚くほど正確だった。
一度見た字を、一分の狂いもなく模写する。筆民の中でも稀有な技術。
だがカナメ自身は、それを誇ろうとはしない。
「意味は、持たない方がいい。持った瞬間、それは重くなる」
そう、誰にも聞かれない声で呟いた。
カナメが文字を書き終わると、瞬間、男の左腕は瞬いた。
焼け爛れた皮膚が、戻っていく。血肉が復元していく。気付くと、男の傷は不格好ながらに治癒されていた。
そして男の腕には、少女の名が浮かび上がる。
「……笑顔が素敵な娘さんじゃないか」
少年は、脳裏に浮かぶ少女の記憶を振り払った。
003
その日の昼過ぎ──
杖の音を響かせながら、ひとりの老婆がカナメの机に近づいてきた。
背は丸く、白髪は風に乱れているが、目だけは真っ直ぐだった。
「……墓標に、名前を入れてほしいんだよ。」
「名前屋なら他にも……いや、“意味なし”希望か。なるほど。」
老婆は小さな板を懐から取り出した。
粗末な木切れだが、しっかりと磨かれていて、大切に扱われているのがわかる。
「旦那の墓標さ。“轟々(ごうごう)”って、彫ってほしい。
あの人、生きてる間ずっと怒鳴ってばっかでね。……でも、その声が、心地よかった」
“轟々”。
カナメは、少しだけ目を細めた。
「漢字二つの依頼か。珍しいな。……繰り返し字、対応してないんだけど?」
冗談めかして言うと、老婆は少し微笑んで言った。
「大事な人だったんだよ。だから、たった一字じゃ足りないのさ。
“意味”は込めなくてもいい。ただ、“姿”を残してくれればいいんだ」
“意味を込めなくていい”。
その言葉に、カナメはなぜか心のどこかを突かれた気がした。
「……了解。追加料金は取らない。こっちも気分次第ってことで」
筆を持ち、墨を含ませる。
木札の上に、静かに筆を下ろす。
一文字目──轟。
二文字目──轟。
そして三度、同じ字を、今度はより正確に、なぞるように。
その瞬間だった。
空気が、揺れた。
墨がにじまず、逆に筆先へと吸い戻されるような錯覚。
「……ッ、なんだこれ……?」
目に見えない何かが、木札の中で蠢く。
「轟」の字がまるで、生き物のように振動した。
周囲の空気が震える。地鳴りのような低音が、鼓膜にひっかかる。
カナメは筆を止めた。
だが、“何か”はもう始まっていた。
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