第2話

◆第2章:沈黙の交渉

|場所:香港・中環(セントラル)|2033年2月


香港・中環(セントラル)

午後3時25分、スコールのあと


天井の古びたファンが、軋む音を立てながら湿気を含んだ空気をかき混ぜている。観光客の姿はほとんどなく、店内には広東語が飛び交う地元の喧噪が充満していた。


レオンは窓際の席に腰を下ろし、メニューには目もくれず、雨に濡れたガラス越しに外を眺めていた。スーツの上着を脱ぎ、シャツの袖を無造作に折り返している。右手には例のリーク文書が転送されたスマートフォン。そこに映る一行の見出しが、何度も脳裏で反響する。


「日本は、もはや対話の国を捨てた。」


「……昔のお前なら、そんな言葉は口にしなかった」


テーブルの向かいに、ひとりの男が腰を下ろした。

張琥珀(チャン・フーホー)、元中国外交部の参事官。レオンと同じく、一線から追われた人間だ。


スーツの代わりに淡いグレーのリネンジャケット、無精髭が顎に残り、どこか疲れの色を滲ませていた。それでも、その眼光はかつて北京の会議室で鋭く交渉相手を刺し貫いていた頃と変わっていない。


「俺も変わったが、お前も変わったな、レオン。顔が…戦士の顔になってる」


レオンは応じず、静かにスマートフォンの画面を張に差し出した。

張はそれを覗き込み、無言でスクロールしながら、目の奥がわずかに動いた。


「日本が核兵器に手を――。これが本当なら、北京は黙っていない」


「北京だけじゃない。ソウル、ワシントン、モスクワ……そして、日本の国民もだ」


「君は、それを暴こうとしているのか?」

張の声には、どこか挑むような皮肉が混じっていた。


「いや、まだ何も決めていない。ただ、俺は”情報”が必要だ。君が今、誰とも手を組まずに動いていることは知っている。外交ルートの裏、衛星情報、通信傍受……君にしか見えていないものがあるはずだ」


張は一瞬だけ苦笑し、テーブルの上に手を組んだ。


「それを提供すれば、私の身がどうなるか分かって言ってるのか?」


「分かってる。だから、“一度きり”でいい。これ以上は頼まない」


張は天井を見上げるようにしばらく沈黙し、数秒後、眼差しをレオンに戻した。


「お前はかつて、“交渉の男”だった。だが今は、交渉の余地も、信頼も、この世界から消え失せた。俺たちはみな、沈黙の時代に生きているんだよ、レオン」


レオンは一言も返さなかった。ただ、目を逸らさずに、張の沈黙と向き合っていた。


そして、数分後。


張は小さな紙片を取り出し、万年筆で何かを書き記した。それは古い貨物港にある、ある倉庫の座標だった。


「そこに、今夜23時。1回だけだ。データは持っていく。以後、連絡は取らない。いいな?」


「……感謝している。昔の友情に」


「違うな、これは友情じゃない。最後の警告だ。お前の国が、ここまで堕ちたという現実に対する、な」


張は立ち上がると、濡れた路地へと姿を消した。


冷めかけたコーヒーに、レオンはようやく口をつけた。

苦味が、舌に残った。


香港島・西環(サイワン)

夜23時02分


倉庫街は夜の帳に沈んでいた。昼間の喧騒が嘘のように消え、路地にはわずかな街灯の光と、貨物コンテナがつくる長い影が交差していた。


レオンは、フードを目深にかぶったまま、指定された倉庫の前に立っていた。警備員の姿はなく、監視カメラも沈黙していた――いや、殺されていた。張の仕業だ。


扉はわずかに開いていた。レオンが押し開けると、かすかに油の焼けた匂いが漂った。


中には、木製のパレットが無造作に積まれ、埃にまみれた空間が広がっていた。そして中央に、ポータブル型の暗号通信装置と、黒いハードケース。


そのそばに、張がいた。


「遅れたな」

「君にだけは、時間に厳しいままだな」


張は笑わなかった。ただ、レオンに近づき、無言でハードケースを差し出した。


「これは?」

「日本政府と防衛省が交わした、“共同研究”という名の核関連契約文書の写し。日米間の技術移転も含まれている。正式な名前は出てこない。だが、裏には民間を装った研究機関が3つある。ひとつは――長崎だ」


レオンが怒りの表情がわずかに動く。


「長崎……」

「皮肉な話だ。核の記憶が最も深く刻まれた場所で、未来の核が静かに芽吹こうとしている」


張はレオンの手に紙片を押し込む。そこには、3人の名前と暗号IDが記されていた。


“KIRA-03”(防衛省 若手官僚)

“PHOENIX-N”(元自衛官)

“GHOST-LENS”(国際ジャーナリスト)


「これは?」

「日本の中で、まだ心が死んでいない人間たちのコードネームだ。直接の接触は避けろ。まずは“PHOENIX-N”を探せ。彼は今、東北にいる」


レオンは静かに頷いた。


「君は……これからどうする」

「私か? 沈黙に戻るよ。情報を渡せば、私は消える。それがルールだろう?」


そして張は、倉庫の奥の闇に紛れるように消えた。まるで、最初から存在しなかったかのように。


レオンはハードケースを手に取り、呼吸を整えると倉庫を後にした。

外では、雨がふたたび静かに降り始めていた。

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