白鷺計画

 高 神

第1話

プロローグ:「就任式(The Inauguration)」


2033年1月20日|ワシントンD.C.


降りしきる冷たい雨の中、彼は再び壇上に立った。

白髪が混じったブロンドの前髪が風に揺れ、赤いネクタイは昔と同じ長さで胸を叩いていた。


群衆は歓声と怒号に二分されていた。星条旗が波打ち、警備ドローンが頭上を低空で旋回する。テレビ中継の音声は繰り返し、「第47代大統領就任式」という言葉を流していた。


「アメリカを再び、最初に。」


それが彼の最初の一言だった。


演説の中で彼は、同盟の終焉を宣言した。NATOからの正式離脱、国際裁判所の無効化、国連への資金停止。

それはもう演説ではなかった。宣戦布告に近い。


だが、その日、歴史の歯車が音を立てて逆転を始めたことに気づいた者は、まだ少なかった。


◆ 第1章:沈黙の海


|場所:東京、日本|2033年2月


東京湾を見下ろすマンションの最上階。

書斎と思しき薄暗い部屋の中で、川村レオンは、淹れたばかりのコーヒーに口をつけることもなく、ノートパソコンの画面を凝視していた。


『防衛省、極秘裏に核兵器開発に関する内部会議を実施』


そのリーク文書を見つめる彼の顔には、怒りも驚きも浮かんでいなかった。

ただ、音もなく何かが崩れ落ちていくような、静かな絶望だけが滲んでいた。


日本がついに核兵器を保有する方向に舵を切る――それがどれほど危険な選択であるか、レオンには痛いほどわかっていた。


かつて外務省の中国課に所属していた彼は、日中関係を裏から支える調整役だった。

だが、その努力を継ぐ者はいなかった。

外務省が彼を切り捨てたときには、すでに水面下で「戦争の準備」が始まっていた。

日本は今、無謀な――武力と武力がぶつかり合う時代を、政府の手で選ぼうとしている。

その行き着く先では、国民は翻弄され、不安に身を委ねるしかない。


机の端には、色褪せた一枚の名刺が置かれていた。


Leon Kawamura, Deputy Consul

Embassy of Japan, Beijing

(川村レオン・日本大使館副領事・北京)


もはや、それが意味するものは何もなかった。


「交渉は終わった。これからは沈黙の時代だ……」


誰に聞かせるでもなく、レオンは静かに呟いた。

だがその内側では、ある決意が芽生えつつあった。

日本の国民のために、行動を起こすべき時が来た――。


とはいえ、行動には仲間が必要だ。

だが誰を、どのようにして集めればいいのか。

そのことだけが、彼の心を鈍く締めつけていた。


レオンは静かに椅子から立ち上がると、書斎の隅にある金庫に向かった。

指先で番号を打ち込み、金属の扉が重たく開く。


中には、外交官としての過去を封じ込めた古びたファイルと、一台の携帯電話があった。

この端末だけは、北京時代の情報網――表に出ることのない人脈――と繋がっていた。


「君に連絡するしかないな……」


そう呟きながら、レオンは連絡先一覧の中から一つの名前を選ぶ。


張 琥珀(チャン・フーホー)

元・中国共産党外交戦略局の一員。現在は消息不明となっているが、レオンにとっては数少ない信頼できる裏の交渉人だった。


通話ボタンを押す指に、ほんの僅かな躊躇が走る。

一度関われば、もう後戻りはできない。


……コール音が三度響いたあと、聞き慣れた低い声が受話口から返ってきた。


「……この番号を使うとは、何年ぶりだ?」


「張。君の力が必要だ」


「戦争か?それとも、その前に終わらせたいのか?」


レオンは一拍、言葉を飲み込み、そして答えた。


「まだ、間に合うかもしれない。だが、それには“本物の交渉”が必要だ。政府の意志とは別のレベルで動かないと……」


張は沈黙したまま数秒の間を置いた。


「他には誰がいる?」


「まだいない。君が最初だ」


その返事に、ふっと小さな笑いが返ってきた。


「ならば、お前は正気だ。……そして無謀だな」


通話は数分で終わったが、レオンには確かな手応えがあった。

張が動くなら、旧東アジア外交圏に潜む「冷静なブレーンたち」も手を貸す可能性がある。


次に探すべきは、国内の内部告発者――核開発に関与する政府内のブレた者。

その情報をつかめば、世論を揺るがすカードになる。


レオンはパソコンを閉じ、再びコーヒーに目をやった。

まだ湯気は残っていた。


「沈黙の時代」は、今、ゆっくりと動き始めている。

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