春を越えていけば

@natama

滝が流れている。

水は透き通り、岩は黙って立っていた。

僕は小石を投げる。

音は、滝の中でかき消えた。

けれど確かに、水面はひとつ、震えていた。


まだ五月だというのに、空気がじっとりと重い。

夏将軍が早くも出張ってきたらしい。

ベランダに出ると、木々は青く、草は膨らんでいた。

何日か前は、まだ四月で、ようやく冬の寒さを通り抜けたというのに。


僕は昼飯を買いに、外へ出かけた。

といっても、近くのコンビニと家を往復するだけだが。

扉を開くと、湿気が顔を打った。

空気が重い。まだ五月なのに。

七月は、いったいどうなるつもりなんだ。

それぐらい、暑かった。


街には、半袖を着ている人が多かった。

季節の変わり目に置いてかれそうになりながらも僕は歩いた。

公園の時計は十二時を指している。


自販機の前で、立ち止まった。

冷たい缶を買う気になれず、自分の影が伸びていくのを眺めた。

夏の太陽が背中を押してくる。

それでも、足はしばらく動かなかった。


それでも結局、歩き出す。

角を二つ曲がって、古びた塀のある道を抜ける。

錆びついた校舎を通り過ぎる。

あちこちにツツジの花が咲いていた。

誰も手入れしていないはずなのに、やけに鮮やかだった。


いつものマンションがやけに大きく見える。

ひとつ深呼吸をしてから、家の前に立つ。

鍵を挿す手が、少しだけ汗ばんでいた。


YouTubeを開く。音声を流しながら、コンビニの弁当をつつく。

これが週末の日課だった。

サイダーを開ける。

小さな破裂音が、静かな喧騒にかき消された。

水面が揺れている。

こんな青空の中、こんな非生産的なことをしているのか。

僕は思った。

今頃、友達は部活だったり、友達と外で遊んだり…。

汗がTシャツに滲んで、ふと涼しい風が吹いて心地良いことに気づいたり…。

こんな夏を、ただ見送るのか?

これだけ暑いのは、僕がだらけきってるからではないのか?

僕は旅に出ることを決めた。


下駄を履いて、扉を開いた。

といっても、どこに行けばいいのかもわからず、僕はたださすらった。

近くの海を見に行ったり、昔好きな子と遊んだ場所を訪れてみたり…。

路地裏の野良猫は、僕のことを不思議に見ていた。

公園の真上にはとても大きな白い雲が黙々と空を眺めていた。

名前は分からないが、何故か僕と気が合いそうな雰囲気だった。


いつもの道の先を通り抜けて、立派な橋を渡った。

川は少し、濁っていた。

近所で、中学校が体育会をやってることに気づいた。

少し覗いてみることにした。


同年代の少年少女が、炎天下の中、汗を垂らしながら青春を謳歌している。

みんなで笑い合ったり、走り抜けたりしている。

それは僕が求めていた夏だった。

誰も、僕を知らぬふり。

ただ網越しに見ることしかできなかった。

…情けないな。

街角は僕を見下すかのように煌めいてた。


歩いていると、偶然友達と出会った。

友達は僕がさっき見ていた体育会を見に行くらしい。

多分、その中学校に友達でもいるのだろう。

僕は、今旅をしていると伝えると、友達は千円札一枚をくれた。

こういう優しさが、周囲に人を呼ぶのだろう。

またな、と言って去った友達の背中は涼し気だった。

僕は返す言葉が見つからなかった。

ポケットにしまった千円札が、まだほんのりと温かった。


いつの間にここにいるだろうか。

相当遠いところへ歩いたと思う。

僕は一旦公園のベンチに座った。

時計塔は二時半を示している。

下駄が足に合わない。

足に何か刺さったと言わんばかりに、痛い。

太陽は、いっぱいに輝いている。

体が焼かれるほど、暑い。

だけど、ここで帰ったら、ただ無駄に体力を消費しただけな気がする。

諦めて帰るか。どこかのゴールへついてくたばるか。

僕の夏への探求は、終われない気がした。

それを見つけるまでは帰ることが許されない気がした。


僕は立ち上がって、ふらついてよろめきながらも歩き出した。

「…アイ、スタンド、アローン」

なんて呟きながら。


僕は思い出した。

何年前の夏、家族と行った島のことを。

そこには、確か神社があったけど、僕は疲れ果てて行かなかった気がする。

今しか無い。

僕はそう思った。

それは、もしかしたら夢の中の話かもしれない。

僕だけの妄想かもしれない。

でも、夏の風が言っている気がする。

そこへ、行けと。


時間がわからないほど、歩いた。

どこかの知らない街の色も歪み始めた。

僕はいつまで幽霊みたいに一人で彷徨い続けるのだろうか。

公園には誰も居ない。

寂れた遊具が微かに揺れている。

それでも僕はまた一歩、足を出した。


しばらくすると、巨大なビルが見えてきた。

やっと大きな街に出てきた。

街には人間模様に染められている。

太陽が白く光りだして、僕は時間の流れを感じた。

まるで、白昼夢だった。

親子や、少年少女達が湾岸の広場で遊んでいる。

その中には、僕と同年代ぐらいの人も居た。


僕はお腹が空いたから、近くのコンビニへと向かった。

おにぎりと水をレジに出す。

なけなしの千円を一寸でも、使ってしまうという後ろめたさを背に、僕はコンビニから出た。


僕は近くの湾岸の広場にある岩へ跨いだ。

岩は、疲れ切った足腰にフィットして、気持ちよかった。

一生このままでいい気さえした。

潮風が漂っている。

下駄を履いて、おにぎりを貪り食う僕はまるで、想い出小僧だった。

先祖の記憶かは知らないけど、昔もこうして、どっかで食ってた気がする。

湾はとても透き通ってる。何時間か前に見た川とは大違いだ。

縁の散歩道では、老人が走っていたり、三十ぐらいの人たちが話してたりしていた。

老犬は、僕のことを、舌を出したまま不思議そうに見ていた。

僕は老犬と眼があった。

その時、僕の中で、何かの芽が生えた。


あれから、何時間経ったろう。

もう空は、少し頬を朱くしながらも、夜へと溶けていった。

ここはどこだろうか。

暗くて見えないが、どこか懐かしい。

意識は朦朧状態で、ぼくはなぜか裸足だった。

ふらつきながら、歩いた。

足場が無いような状態だった。

月の砂塵が目に入って、涙が一筋流れた。


しばらくすると、光が見えてきた。

ここは、現実なのだろうか。

それすら、考える余地もなかった。

足が激烈に痛い。履いていた下駄はどこへ転がったのだろうか。

倒れそうになりながら、僕は光へ向かった。

ここは僕一人しかいないのか?

僕は家へ帰れるのか?

よく考えたが、それはただの時間を無駄に消費していくだけだった。


光へと、段々、近づいてゆく。

僕は、走馬灯みたいなのを見ていた。

月以外、何も見えない中。

友達の笑い声が、残響している。

なぜか、僕は力が抜けていった。

僕はこの光にすら、たどり着けず、くたばるのか?


このままでは終われない気がした。

僕は最初、何を求めて旅をしていたのか。

そんなことを忘れていた。

でも、魂が、くたばることを拒否した。

倒れそうになりながら、僕は少しずつ少しずつ立ち上がった。

「…あい、スタン…ド…あろ…、ン…」

なんてにやついて呟きながら。



光へ着くと、そこが海であることに何秒かして、気づいた。

水平線は、まだ一寸紅みがかっていた。

汗がシャツを濡らして、涙が頬を濡らした。

僕は今、確かに夏のど真ん中に居た。

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