第29話
目を覚ました時、自分がどこにいるのか分からなかった。
真っ白な壁と天井、消毒の匂い――しばらくして病院だと気づいた。
防犯ブザーの音に気付いた誰かが、階段下で倒れている俺たちを見て、救急車を呼んでくれたのだろう。
助かった、と安堵の息を吐きつつ、それにしてもやけに脇腹が痛むのはどうしてだろうと顔をしかめる。
「――御伽さん、目を覚ましたんですねっ」
せっかくの綺麗な顔が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっている。
どうしんたんだよ、その顔、と言いかけて、なぜか咳込んでしまった。
やけに喉が渇く。声が掠れてうまく出せない。
「無理しないでください、今、看護師さんを呼んできますからっ」
「ま、待ってくれ」
そんな甘神を無理やり引き留めて、
「俺は階段から落ちたんだよな? 板井は……どうなった? タスク(俺)の身体は無事か?」
つい気が焦ってしまい、矢継ぎ早に訊ねる。
甘神はハッと息を飲むと、じっと俺を見つめて、
「……御伽さんは階段から落ちたのではなく、車の前に飛び出して、轢かれたんですよ」
「ああ、子猫を助けようとして……じゃなくて、俺が訊きたいのは――」
御伽さん、と俺の言葉を遮るように甘神は強い口調で呼ぶと、
「志伊良さんは以前、御伽さんと身体が入れ替わったのだと私に言いました。見た目は志伊良さんでも、中身は御伽さんなのだと。今はどうですか? あなたは志伊良さん? それとも御伽さんですか?」
「御伽だ、御伽草士に決まってる。タスクと身体が入れ替わってるって、何度も説明したはずだ」
今さらどうしたのだろう。
甘神が何を言いたいのか分からない。
現状が分からず混乱する俺に、
「どうか落ち着いてください、御伽さん」
甘神は辛抱強く言った。
「まずは鏡でご自分の今の姿を見てください」
差し出された手鏡を受け取って、俺は絶句した。
そこには映し出されていたのは記憶に残りにくいモブ顔――だが妙にしっくりくる顔――俺……御伽草士の顔だったからだ。
「元に、戻ったのか?」
「そうみたいですね」
しかし実感がわかず、俺は長いこと鏡に映る自分の顔を凝視していた。
青白く、生気が感じられない――けれど生きている。
ずっとタスクの中にいたせいか、あらためて自分の顔を見ると、なんだか変な感じだった。
そんな俺の手をぎゅっと強く握り締めて、
「御伽さんは今、御伽さんの中にいます」
噛みしめるように甘神は言った。
まさか彼女の口からそんな言葉が出てくるとは思わず、驚いて横を向けば、泣き腫らした彼女の顔がすぐ近くにあってドキドキした。
「目を覚ましてくれて……生きていてくれてありがとうございます」
あまりにも強く手を握りしめられて、痛いくらいだった。
うろたえる俺に気づいた甘神がわずかに力を抜くと、
「御伽さんにまた会えて、嬉しいです」
優しい声で囁きかける。
「……中身が入れ替わってたこと、信じてくれるんだ?」
「はい。じゃないと、説明がつきませんから」
それからふうと一息つくと、
「先ほどの質問の答えですが、志伊良さんはご無事ですよ。御伽さんのおかげで」
俺が志伊良の中で意識を失ってから、既に三日も経っていたらしい。
軽く未来へタイムスリップした気分だ。
「だったら板井は……?」
「救急車で病院に運ばれました。志伊良さんは軽傷で済みましたが、彼女は……」
言葉を濁す甘神に、悪い予感が脳裏をよぎる。
「死んだのか?」
「いいえ、生きていますよ。ただ、頭を強く打ったらしくて……」
意識不明の重体。
万が一、目覚めることがあっても、脳に後遺症が残るだろうというのが医師の判断らしい。
黙り込む俺を見て、甘神が慰めるように言った。
「御伽さんのせいじゃありませんよ」
「けど……」
「御伽さんが目覚める少し前に、志伊良さんがここに来たんです」
秘密を打ち明けるような声で甘神は続ける。
「ずっと夢を見ていたと言っていました。御伽さんと入れ替わった夢を。元に戻ってからも、ご自分の身に何が起きたのか、おぼろげながらも覚えているそうです。御伽さんに助けられたと言っていました。こいつは俺のヒーローだって……」
私が話したことは内緒にしてくださいねと口止めされて、もちろんだと頷く。
男同士でこんなこっぱずかしいやりとり、できるはずがない。
タスクも甘神が相手だからこそ、本音を語れたのだろう。
――高校生にもなってヒーローとか、小学生か。
もっとも目の前の美少女をヒーロー扱いした俺もタスクのことは言えないが。
「俺も覚えてる。甘神と一緒に動物園に行ったり、慎也に殴られたりしたこと……」
しかし元の身体に戻ったせいか、今やその記憶も遠い過去の出来事のように感じた。もう少し時間が経てば、徐々に記憶も薄れ、全てが夢だったと思えてくるだろう。
「ところで、さっきから脇腹がすげぇ痛むんだけど」
「肋骨を折っていらっしゃるので、そのせいかと」
やはり事故に遭って無傷とはいかなかったようだと、げんなりしてしまう。
「そろそろ看護師さんと先生を呼んできますね」
思い出したように言って、慌ただしく部屋を出ようとした甘神だったが、
「その前に……ご両親にお会いになりますか?」
おずおずと切り出されて、「うちの親、来てるの?」とびっくりする。
「ええ、もちろん。御伽さんの顔を見るのがつらくて、病室には入れなかったようですが、状態を確認するために毎日来院されているみたいです。お父様とお母様が交互で。お休みの日は、お二人で……本当に気づかなかったのですか?」
ぜんぜん気づかなかった。
もしくは無意識のうちに、家族の存在をシャットアウトしていたのかもしれない。
少しでも意識すると、罪悪感で押しつぶされそうになるから。
「そんな顔をしないで、御伽さん。大丈夫ですよ、私がついていますから」
甘神に背中を押されて、俺は両親に会うことにした。
母は俺を見るなりポロポロと泣き出して、父は黙って俺の肩に触れた。
二人とも、しばらく見ない間にげっそり窶れて、十歳は老けて見えた。
俺が事故に遭った経緯等は、甘神が事前に説明してくれたのだろう。
責められることも、怒鳴られることもなかった。
ただ一言、
「……お帰り」
「お帰りなさい、草士」
じんわりと胸が温かくなるのを感じながら、俺も答える。
「ただいま、父さん、母さん。心配かけてごめん」
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