第8話


 俺は最初、甘神のことが苦手だった。

 近所に猫と触れ合える猫カフェがあると聞いて、いそいそと来店した俺に対して、


「お一人様ですか?」


 当時の彼女は露骨に胡散臭そうな顔をしていた。


 その時の俺は、客に対して感じ悪いなこいつ、としか思わなかった。確かに男子高校生が一人で猫カフェに来るなんて、同じ年くらいの女子からすればさぞ気味が悪かろう。だからといって、他人にとやかく言われる筋合いはない。顔が可愛いからって何をしても許されると思うなよと。


 もっともそのカフェでは、費用を除いた売上金の全てを保護した猫たちの治療費や食費に充てているので、客だからといってけして大きな顔をして良いわけではない。オーナー兼店長さんを含め、お店のスタッフさんたちは猫を救うための保護活動をしているのであって、客商売で儲けようなどと考えてはいないのだ。その辺、勘違いして偉そうにしている客がいて困る。恥ずかしながら、俺もその一人だったが。


「お荷物は全てこちらで預からせて頂きます。ふれあい部屋では大きな物音を立てたり、大きな声を出したりしないでください」


 まるで刑務所にいる看守のような目つきで甘神は俺を見ていた。

 けれど今にして思えば、俺が猫に何かしないか心配だったのだろう。


 猫と触れ合える部屋に入って、驚いたのはその数の多さだった。およそ三十匹はいるだろうか。あまりの数の多さに初めはビビったものの、人懐こい猫が代わる代わるすり寄ってきて、気持ちが瞬く間になごんだ。さび色やキジ、黒といったミックスからベンガルやアメショといった純血種まで、様々な種類の猫がいて、見ていて飽きない。猫のゴロゴロ音には人をリラックスさせる効果があるというが、どうやら本当らしい。


 よく見れば事故で足を失ったり、片目が潰れた猫もいて、過酷な現実を突きつけられた気分だった。中には飼い主に虐待された猫もいて、怒りを覚えると同時に泣きたくなる。普通なら人間を恐れて近づいてこないはずが、他のお客さんにおもちゃで遊んでもらっている。おそらく、優しいスタッフさんたちの温かなサポートのおかげだろう。穏やかな音楽が流れる室内には、お客さんやスタッフの笑顔が溢れ、悲壮感は微塵も感じられない。


 楽しい時間はあっという間に終わってしまい、猫たちに別れを告げて部屋を出ると、


「……猫、おうちで飼ってらっしゃるんですか?」


 真剣な顔をした甘神に話しかけられて、びくっとする。


「飼っていません。母親が猫アレルギーなので」

「そうですか」


 意外そうな声を出されて、なんなんだと首を傾げる。


「ずいぶんと猫ちゃんの扱いに慣れているようでしたので」

「あー、イメージトレーニングだけはばっちりやってきたんで」


 胸を張って答えれば、甘神は頬を引きつらせつつ、俺から少しずつ離れていく。


 ーーなんだその憐れむような目は……。


 しかし甘神のことは苦手でも、猫のことは大好きだ。

 ただそこにいるだけで癒される。


 暇さえあれば猫カフェに通いつめていたせいか、


「あら、草くん、いらっしゃい」


 ついにスタッフさんに顔と名前を覚えられてしまった。

 ちなみに俺の推し猫はベンガルの「キング」だ。


 俊敏で野性的な美しさを持つ猫で、目の色はグリーン。

 こいつが超かっこいい。


 もともとブリーダーのところで繁殖用の猫として飼われていたらしいが、猫嫌いの身内がいたらしく、ひどい虐待を受けていたらしい。そのせいか、キングは人間のことをひどく怖がって、いつも部屋の隅に隠れていた。キングはまだ人に慣れていないので注意してください、と事前に警告されていたにも関わらず、俺は何度もキングに近づき、引っかかれたり噛みつかれたりした。


 それでも諦めずチュールやおもちゃでキングのご機嫌伺いをしていた俺だったが、ある時、俺が部屋に入ると同時にキングのほうからすり寄ってきて――恥ずかしいかな、俺は感極まって泣いてしまった。この店では常に里親も募集しているので、このままキングを家に連れ帰って家族にしたいと何度思ったことか。


「良かったですね、御伽さん。キングが自分からすり寄ってくるなんて、これまで店長だけだったのに。すごいです」


 甘神の、俺に対する態度が変わったのは、たぶんこの時からだろう。


「いらっしゃいませ、御伽さん。今日はいい天気ですね」


 来店するたびににこやかに話しかけられて、俺の中で甘神は苦手な女子からやや好感が持てる女子にランクアップした。


 クラスでは女子と普通に会話するものの、相手が美人だったり可愛かったりすると、なぜか緊張してしまう俺である。ブス専というわけではなく、ただ単に耐性がないだけだと思うが、イケメンに群がるギャルはもちろんのこと、正統派美少女などもってのほか。なんか見下されている気がするし、可愛い私が話しかけているんだからありがたく思いなさい的な押し付けがましさも感じる。


 甘神に対して、そんな偏見を持っていた俺だったがーー客観的に考えれば、自分に自信がなくて卑屈になっているだけなのだがーーある日を境に考えが一変した。


 日曜日の午後、カフェに向かう途中で川に落ちて流されている猫を見つけた。


 すぐに助けようと思ったものの、俺はかなづちで、水が怖かった。

 流される猫のあとを追いかけながら、どうしようとパニックに陥る俺の前を何かが通り過ぎる。


 それは川に向かって全力疾走する甘神だった。

 彼女は持っていたカバンを投げ捨てると、なんのためらいもなく川に飛び込んだ。


 水泳選手さながらの泳ぎっぷりで猫を救出すると、そのまま脇目もふらず川から上がってきて、ずぶ濡れのまま猫を抱えて走り出した。必死にあとを追う俺にも気づかず、まっすぐ近くの動物病院に駆け込む。まもなく、その猫は亡くなった。元々重い病気を抱えていたらしく、そのせいで誤って川に落ちてしまったのだろうと医師は言った。


 首輪はなく、野良猫だった。

 死んだ猫の身体を抱きしめて、甘神は泣いていた。


 綺麗な顔をぐちゃぐちゃにして、鼻水も垂れ流しのまま、わんわん声を上げて泣いていた。

 甘神があまりにも泣くので、俺は返って冷静になった。


 とりあえず全身ずぶ濡れの彼女に上着を羽織らせ、緊急用のクレジットカードを使って清算を済ませる――後日、甘神がきちんと返金してくれた――と、彼女を連れてカフェへ向かった。放っておくと、彼女はいつまでもその場にうずくまって泣いてしまうので、しっかりと彼女の手を掴んで歩いた。彼女の手はものすごく冷たくて、このままじゃこいつ絶対に風邪を引くなと心配になる。


 俺はこの時、汚れ切った空気の中で、とてつもなく美しいものに触れたような錯覚を覚えた。


 ――こいつすげぇわ。ヒーローみてぇ。


 俺の中で甘神が、やや好感が持てる女子から好きな女子にランクアップした瞬間だった。


 だからこそ、車の前で固まっている子猫を見た時、助けずにはいられなかった。

 甘神だったら、絶対に同じことをすると思ったから。


 子猫を助けたことに後悔はない。

 けれど俺のために泣く彼女を見ると、申し訳ない気持ちになる。


 生きたいと、強く思う。




 

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