第八話.街並みと別れ

「クスシは猫ではなく、蛇だったのです」

「へ?」


 身支度を整えてくれる最中、クスシが唐突にそんなことを言い出した。爪にも頬にも紅を塗られ、髪をまとめてくれている時のことだった。


「猫…‥っていうのは、その耳のことよね。蛇っていうのは?」


 化粧鏡に映るクスシの頭には二つの黒い猫耳があって、少しだけへたれているのが見えた。


「言葉のとおりです、奥さま。クスシは以前、耳などありませんでした。代わりに鱗と細長い舌があったのです」


 ……からかわれているかと思ったけれど、クスシの顔は真剣だ。


「想像がつかないわ。どうして蛇から猫になってしまったの?」

「クスシにも分かりません。でも、変わったのはあの大地震の時でした」


 穂果ははっと息を飲む。両親を失い、パイエンが力を失い、クスシの身体が変化した。あの震災ひとつで何もかもが目まぐるしく変わっていた。


「ですから奥さま。もし外で似たような事象を耳にされたなら、必ずクスシに教えてください。……旦那さまは、クスシのその変化にすら気づけていないのです」

「えっ」

「クスシはパイエンさまの眷属です。クスシの変化はパイエンさまの変化です。パイエンさまが変化に気が付かないのは、ご自身の不調にお気づきになっていない証拠です」


「……それはまずい、わよね。わかったわ、何かあったらすぐに教えるから」

「ありがとうございます、ですが」


 クスシは私の髪をかんざしで結い上げ、そのまま肩に手をおいた。


「まずはご両親とのお別れをご優先ください。葉摘さま」

「……ありがとう。クスシ」


 礼を静かに返し、ミサンガをつけた手と袂にしまった鏡を確かめてから立ち上がる。今日は、待ち望んだ両親に会う日だった。



 神田区は木造住宅が建ちならび、以前から火事が頻発する場所だった。震災の時にも大火が発生し、あちこちの建物が焼けこげてしまっていた。

 車の中から外の光景を見れば、世界が終わったのではないかと錯覚してしまう。でも神通力を使い瓦礫を持ち上げる神々や、その中にいた人を助け出そうとする人々の存在が、まだこの街が生きていると強く告げていた。


「パイエンさまは、震災の時被害はなかったのですか?」

「いえ、ワタシも建物内でしたので幾らかの怪我はしました。ですがワタシの力を込めたミサンガの在処は感じ取っていましたから」

「それで、私の場所がわかったのですね」


 穏やかな声はそのままにパイエンの眉が下がる。優しいのにどこか自信がない彼が申し訳なさそうにする時にこんな顔をすることに、穂果は薄々気がつきはじめていた。


「はい。それでアナタを助けた後に救護院の様子を見て回り。……ですが、あそこで先に周辺の状況を確認しておけば、ワタシの力が不安定になっていなければ。穂果さんのご両親も助けられていたのではないかと。後悔しています」

 二人だけの車内で呼ばれた名前と悔恨。それはちがうと首を横に振る。


「いいえ、後悔しないでください。……たしかに父さまと母さまが亡くなったのは悲しいですが。それでもあなたは誰かを助けたのです。それを悔いる必要はありません」


 はっきりと告げれば、彼の目が丸くなる。そのまま唇が震えて開きかけたところで、外から声が聞こえてきた。


「もうすぐ目的地です。旦那さま、奥さま、お出になる準備を」

「……もうすぐ到着ですね」

「……はい」


 向かう先は神田の一地区。亡くなった人たちの遺体が置かれている広場だった。



 まだ夏の暑さも残る時期だというのに車を降りてすぐに感じたのは涼しさだ。肌寒さすら覚えて腕をこすればわずかに身体に重みと温かさが重なる。


「ここは遺体を保存するために気温を下げているんです。風邪をひいてしまっては大変ですから、羽織っていてください」


 パイエンがインバネスコートを肩にかけてくれたらしい。「で、でも」と思わず顔を上げた。


「私が羽織ったらパイエンが……」

ワタシたちは人よりも頑丈ですから。ね?」

「……ありがとうございます」


 本当に優しくされている。仮初だとしても、だからこそかもしれないけれど。腹部の、未だ癒えきっていない傷に手を当てる。


「行きましょう。……あの洋食屋が入っていたビルでの被害者は、あちらです」

「……はい」


 長身の彼が歩幅を合わせてくれている。そのことにありがたさと申し訳なさを覚えながら、穂果は横を歩き奥へと向かった。


***


 来るまで一日の猶予があったのだ。気持ちの整理はついていたと思っていたのに。けしていい思い出ばかりがある人たちではないのに。


「……と、うさま。…………母さま」


 それでも白い布をかけられた下、眠るように瞳を伏せている2人を見て、肌が青白くなっているのを確かめて。それを皮切りに涙が次から次へとあふれてくる。

 肩に添えられた手の温かさがなければ崩れ落ちていたかもしれない。


「……、」


 息を吸った男は、けれども何を言うこともなく吐き出した。なんの言葉も聞きたくなかったからそれで良かったし、何も言わないでほしいというように首を子どもの駄々みたいに横に振り続ける。


 何分、何十分経っただろうか。一時間はさすがに経過していないと思いたかったけれど、分からない。穂果が顔を上げられるようになるその時まで、パイエンは隣にいてくれた。


「……すみません、大丈夫だから連れてきてほしいってワガママを言っておいて、こんな……」

「いいえ、謝ることなどありません。身近な人を失ったのだから当然です」


 穏やかなパイエンの言葉に目を合わせられず、でもこれだけは伝えたくて口を開く。


「ありがとうございます。……でも、だからってパイエンが後悔しないでください」

「……」

「パイエンは優しいですから、私の姿を見てやっぱりって思ったかもしれません。でも、私は今、あなたのおかげで二人とお別れが出来たんです」

「……ありがとうございます」


 パイエンの言葉に首を横にふった。お礼を言われるようなことはできていない。まだ穂果は本尊のヒビを治すことすらも出来ていなかった。


「は……み……。……葉摘……、……穂果」

「っはい!」

 突如呼ばれた自身の名前に肩が跳ねる。慌てて周囲を見渡すが、数十平方メートルにも及ぶ空間いっぱいに敷き詰められるように並ぶ遺体に背筋を震わせるだけだった。


「大丈夫……ではなさそうですね。お別れが終わったのでしたら出ましょう。長居をする場所ではありませんから」

「は……はい」


 頷いてから両親を見下ろす。運ばれた時には痛々しかったらしき傷は神々によって修繕されていて、眠る姿は穏やかだった。

 でも血色を失った肌が、彼らがもう二度と起き上がらないことを示していた。その姿をもう一度目に焼き付けてから、穂果は霊安広場をあとにした。




「ああ。治癒の神、偉大なる御柱パイエンさま、こちらにいらっしゃいましたか!」

 そんな声と走る足音が聞こえてきたのは広場を出て車に乗り込もうとした時だ。背広を着た不安そうな男は、一礼もそこそこに神さまに助けを求めてきた。


「あちらの治癒院で、感染症が流行っており……。頼りの神も今はおらず、どうかパイエンさまの治癒のご加護で彼らを救ってはいただけませんか!」

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