第七話.お守りと効力

 食事が終わり、自室として割り当ててもらった部屋へと戻る。……本来は夫婦として同じ部屋で眠るべきだと分かっていた。けれども期間限定の婚姻だということから、パイエンが配慮をしてくれたのだ。傷が癒えるまでは寝室を別にすべきだと。


「本当、優しいひと、いえ神さまよね……」


 穂果以外誰もいない部屋でしみじみと声がもれる。この部屋の中でだけ穂果は穂果でいることを許された。凛と伸ばしていた背筋の力を弱めて、深い溜息を吐いて寝台へと横たわる。何度寝転がってもこの布団の柔らかさには慣れなかった。


「あ、寝る前に。忘れるとこだった」


 一度寝っ転がった体を起こすのは難しい。気合を入れて「えいやっ」と小さい声を出して、それでようやく起き上がり包帯に手をかけた。

 朝と夕、一日二回包帯を変えることは穂果がすべきことだった。未だに血が完全に止まりきっていないせいか、赤くなった包帯をみて顔は自然と曇る。痛みがないことは不幸中の幸いだけど、まだ数週間はここにいることになりそうだ。


「……こんな時、姉さんがいてくれたら」


 じわりと零れた弱音と血のついた包帯を、まとめて専用のくず入れへと捨てる。何もしていないとどんどんと気持ちが沈んでしまう。せめて何かできないかと引き出しを開けた。


「あ、これって」


 大けがをしたときに服は捨て、生家にも帰れていない穂果にとって自分のものと正しく呼べるものは身の回りになかった。けれど引き出しに入っていた小物や髪留めの中で唯一、見覚えのあるものがある。


「そういえば、拾っていたっけ」


 あの揺れの中、よすがのように握りしめていたのだろう小さな鏡。何度か開けていたけれどここにあることに気がついていなかった。汚れだらけ、傷だらけだけれど唯一それは穂果がこの家に持ち込んだものだった。


「……折角だし、練習に使うのもいいかもしれないわ」

 飾りとしてついている珠にもひびが入っており、それを修繕するのは杖を直す時にも使える技術だろう。他の道具と一緒にクスシに手配をしてもらおう。


 でも、鏡そのものを磨くのなら綺麗な布と水があれば十分だろうか。空いた小瓶に水差しの水を移して、他の引き出しも次々と探して見つけたハンカチーフを手に取った。


「(姉さんは何でもできるようで、実はこういうのは苦手なのよね)」


 もちろん花嫁修業として、姉も私も針仕事は一通り女学校で学んだけれど。手仕事は私の方が成績がよく、両親にも珍しく褒められていたことを思い出す。姉も私が刺繍で小さい花を服や小物につけるたびに、まるで神さまが奇跡を生み出したのを見るように嬉しそうな顔をしていたっけ。


「……っ、」


 視界がゆがむ。今ここには姉さんも、それどころか両親もいないのだ。パイエンと顔合わせをするはずだった洋食屋の下に、今もいるのだろうか。振り子時計みたいな心はすぐに落ち着かない。


 ──穂果、一人で抱え込んじゃだめよ。


 はつらつとした姉の言葉が頭に響く。


 ──あんたはいつだって辛いことほど話そうとしないんだから。あたしでも他の人でも、いっそ物にでもいい。ちゃんと口に出して、それが辛いんだって自覚しなさい。


「……辛いよ、姉さん」


 手のひらの鏡に不安を一滴たらす。すると雨のように次から次へと、不安感があふれ出た。


「父さんと母さんが死んじゃったっていうけれど、まだ信じられてないの。それにあそこで泣いたのも、本当に私が悲しかったのか分からない。だって遺体も見れてないのに。

 姉さん、姉さんも死んじゃってたらどうしよう。震災があったって言ってたし、窓から見たけど、本当にそんなことがあったのかもまだ信じられてないの」


 気がつけば、不安だけでなく本物の雫まで零れ落ちていた。慌てて涙をぬぐってから、布で鏡の表面をそっとなぞった。


「ごめんね。こんなこと言っても何にも解決しないのに」


 鏡に愚痴をこぼすような形になってしまった。ついで出た謝罪と布を受けて、泥汚れが拭われた鏡のふちが僅かに輝いたようにみえた。その輝きを見れば、少しだけ気が上向いた気がする。


「……せめて一歩でも、前に進めますように」

 最後にそんなお願いを唱えてから、鏡をハンカチーフで包み、引き出しに入れて寝台へと向かった。



 ***



 翌朝、日が昇る前よりも早くに目覚めた穂果は大急ぎで支度をすませ、階段を降りていく。


「奥さま。おはようございます。……身なりを整えたのですか?このクスシを呼んでくださればよかったのに」

「おはよう、クスシ。どうしてもこの時間に間に合わせたくて」


 もう間もなく、パイエンが出かけてしまう時間だ。ささやかかもしれないけれど、見送りと迎えに声をかけるくらいはしたかった。インバネスコートを羽織った彼に「おはようございます。パイエン」とはつらつに声をかければ、彼の瞳が大きく見開かれた。


「…………」

「お、おはようございます? パイエン」

「っ、え。ええ。おはようございます、葉摘」

「……どうかされましたか?」


 首を傾げて尋ねれば、「……いえ」と目線をそらされる。けれどももう反対側からクスシがジト目で見つめれば、最終的に折れるのはパイエンの方だった。


「すみません。約束ですから、言います。言いますから」


 軽く深呼吸までするなんて、穏やかな男神の彼がそんなに緊張することなのだろうか。内心首を傾げていればようやく、パイエンと視線があった。


「……葉摘さん、もしキミが望むのでしたら、震災で被害にあったご両親に会えるかもしれません」

「……!!」

「神田の一角に、遺体を安置する場所があるんです。とはいえショッキングな場所ですから、落ち着いてからでも……」「行きたい!行きたいです」


 言葉が終わる前に身を乗り出してしまった。昨日の夜に思い惑っていた心配事のひとつを眼前に出されたのだ。


「パイエンさまが良いのでしたら、今日にでも行きたいです!」

「お、奥さま……」

「っ……!ご、ごめんなさい」

「いいのですよ。とはいえ事前に調整はしたほうが良いでしょう。明日まで、お待ちいただけますか?」

「……はい、もちろんです」


 恐怖も不安もある。でも今は何か一つでも前に進みたかった。穂果の心を見透かした翠の瞳の神さまは、「それではまた明日。約束です」と一度私を抱きしめてから家を発ったのだった。

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