第六話.抱擁と共有
パイエンは日が昇るよりも早く家を出て、月が上まで昇りきったころに帰ってくるのが習慣だとクスシは話していた。けれども今日は日が沈み終えた頃に帰りを報せる鈴がなって。慌てて絨毯が敷かれた階段をおりる。玄関でクスシに上着を預けている白銀の姿が目に写った。
「ただいま、葉摘。体調は大丈夫ですか?」
呼ばれる姉の名にはまだ慣れないけれど、不審な様子を周囲に見せないように笑みを浮かべるくらいのことはできる様になってきた。
「は、はい。おかげさまで痛みもほとんどなく。……おかえりなさい、パイエン。お早いのですね」
「おや、もう少し家を空けていた方がのんびりできましたか?」
「そ、そういうつもりでは…!」
慌てて否定をすれば、冗談ですよとくすくすと笑いが返ってくる。
「葉摘も目覚めてまだ間もないのですから。そのような時に夫が家を長く空けるのは薄情でしょう」
その言葉に胸が暖かくなる。自らの胸元にあてていた手を強く握りしめた。
「……ありがとうございます」
「いいえ。なんてことありませんよ。それにキミこそわざわざ出迎えてくださったのですね。すみません、ご足労をおかけしてしまい」
「足労でも面倒でもありません。私たちは夫婦なのですから」
期間を区切ろうと、姉の代わりであろうとそれは変わらない。それなら妻としての役目を果たさせてほしい。その想いを込めて見上げれば、聡明な翠が困ったように揺れた。
「……葉摘がよいのでしたら。ありがたく。今日は何をして過ごしていましたか?」
「パイエンさ……パイエンの本尊を見せていただいていました」
「そうだったのですね。なら、お気づきになられたでしょう」
その言葉に、脇に控えていたクスシの耳がぴくりと揺れるのが目に入る。
「!?旦那さま、もしかしてあのヒビについてご存じだったのですか?」
「ええ。とはいっても動けていますし、問題はないですよ」
「……」
不満です、とありありと表情で伝えているクスシの目が穂果へと向けられる。その顔つきがあまりにいじらしくて、頷きを返してからパイエンに向き直った。
「でも私も、クスシの気持ちもわかります。パイエンは優しい分自分の中にため込んでしまいそうですから」
「……ええと。すみません、ですが」
言葉を濁す姿に、普段の穂果ならそれ以上は言わなかったかもしれない。だがここにいたのが姉だったなら遠慮なく物申していたはずだ。その時の葉摘の姿を思い出しながら穂果は目を細めた。
「ですが、ではありません。──クスシに言えないことは私に、私に言えないことはクスシに。必ずどちらかには伝えてください。一人で抱え込まないで」
クスシに伝えなかったのは、彼女が本尊を見ることができないからだろう。心配をかけたくない気持ちも分かる。でも、たった一人で抱え込むのはたとえ彼が神であろうとさせたくない。
「(……姉さんもそうだった)」
私が一人で両親に心ない言葉をかけられたことを隠していても、すぐに見抜いて寄り添っていてくれた。
「……ありがとうございます。ええ、何かあればキミかクスシに、必ず伝えます」
「約束ですよ」
やり取りを聞いていたクスシがほっとしたように息を吐き出して、それから深々と一礼をした。
「旦那さま、奥さま。食事のご用意がございますのでこちらへ」
「あ、ありがとう」
「ええ。向かいます……その前に今日の分を」
パイエンは改めて私へと向き直る。数秒もしないうちにその腕が私の背中へとまわりゆるやかに抱きしめられた。私の"治療"の一環だ。数日経過したおかげで最初ほど緊張はしなくなってきた。神の心臓が拍動することはない。ただじんわりとした熱と、私自身の心臓の音が聞こえてくるだけだ。
まだ体を預けることは出来ないけれど、決して拒絶しているわけではないのだと伝えるように服の裾をつまむ。本当は握りしめてもよかったのだけれど、彼が着るシャツ、穂果の父が身にまとっていた羽織よりもずっとやわらかくて、しわがついてしまいそうだった。
たっぷり二十を数えたところで、その手と熱が離れていく。
「ありがとうございます、パイエン」
「いえ、夫として当然のことです。……本当はもっとうまく治療をしてあげられればいいのですが」
その言葉とさがった眉に、昼間のクスシとのやり取りが思い出される。
──愛です。
「……っ……!」
「どうしました、ほ……葉摘、顔が赤いですよ」
「いっ、いえ。何でもありません!」
勢いよく首を振るが、一度浮かんだ言葉が脳裏から離れない。
扉の向こう側、すでに食事が並べられた席につく。洋食器は見慣れないが、顔合わせの前に両親が叩き込んでくれた手でフォークとナイフをもつ。その間もずっと、クスシの言葉が頭をぐるぐると回っていた。
「(……姉さんじゃないから上手くできるかは分からない、けど。この優しい人に少しでも報いたい)」
それはきっと、献身と愛と呼べるものだろう。
偽物の妻をここに住まわせて、心を砕いてくれる優しい神さま。その神さまに少しでも力になれるようなことはないか。訥々と考えながらチキンにナイフをいれた。
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