第22話 夜守の加護

 風が凪いでいた。


 嘆きの霧の切れ間から、空の色がゆっくりと変わっていく。


 紬と九耀は浄化の泉を後にして、天蓋の山脈と呼ばれる峰々の方角へ向かっていた。


 ミコトが語った幻の神獣、雷鳥の存在が唯一の道標だった。


「雷鳥か。九耀、心当たりはある?」


 紬が何気なしに尋ねると、どうやら九耀は心当たりがあるようだった。


「おぼろげだが、覚えている。私が妖狐になる前、狐だった頃……」


 九耀の声はか細くなっていた。


 妖力がほとんど尽きているのか、美しい容貌の仮面はとっくに脱ぎ捨てられ、銀色の髪は束になって抜け落ち、腐敗の刻印がじわじわと広がり、皮膚はどす黒く変色していた。


 九尾のうち、五本の尾は霧の毒に侵され落剝した。


 尾の残りは三本。

 そのうち一本はすでに半ばまで黒ずみ、歩くたびに朽ち、尾の欠片が剥がれ落ちていく。九耀はすでに満身創痍で、紬の支えがなければよろけて立てないぐらいまでに腐敗が進行していた。


 あまりにも弱々しい姿を見るのは忍びなかったが、一縷の望みを賭けて雷鳥を探した。


「狐だった頃、どうしたの」


 九耀はぜえぜえと荒い呼吸を繰り返した。喉の内部も腐敗が進んでいるのか、息をするのもやっとのようだった。会話が途切れ途切れになるのも仕方がない。


「私が狐だった頃、雷鳥の雛を……」


「雛を?」


「食べ……損ねたことがある」


 九耀の思いがけない告白に紬が驚愕した。


「神獣の雛を食べ損ねたの?」


「雷鳥は……神獣というほどのものでもない。高山地帯に生息する絶滅危惧種だ」


 どうにも雷鳥の天敵は狐であるようだった。


「どこで雷鳥を見たか思い出せる?」


「ハイ……マツ、ハイマツが生えて……いた」


 九耀がゲホゲホと咳き込み、どうにか雷鳥を見かけた場所を思い出そうとしていた。


「ハイマツね。ハイマツのある場所を目指せばいいのね」


「ああ、ハイマツは……高山にしか生えない」


 ハイマツは高山にしか生えない植物で、這うように成長する姿からその名が付いた。他の植物が生育できない過酷な高山帯で見られるという。


 雷鳥は周囲の景色に溶け込み、天敵の狐に見つかりにくくするため保護色を纏い、巧妙に岩と同化したり、ハイマツの陰に隠れたりするそうだ。


 九耀は狐だった頃の記憶がだんだんと鮮明になっているようだが、それは妖狐の姿を保てず、妖力を持たないただの狐に退行している証でもあった。


 九耀が完全に妖力を失えば、紬と言葉を交わすことも出来なくなるだろう。


 それまでに天蓋の山脈に辿り着かなければならない。


「……たぶん、あの山だ」


「わかった。あれが天蓋の山脈ね」


 九耀に残された体力からして、誤った山に登ってしまったとしても引き返す余力はない。


「そうだ。あれが私たちの行くべき場所だ」


 久方ぶりに九耀が確信に満ちた声を発した。自らを鼓舞するかのようでもあった。


 山頂付近に微かに光の筋が見えた。何かが空を舞っている。


 風が鳴った。羽ばたく音だ。


 それは霧の空を切り裂くようにして現れた。


 飛来したのは雷鳥だった。


 透き通るような白い羽を纏い、嘆きの霧の中でも燦然と輝く神の鳥。

 胸には金色の紋様が浮かび、その目には人知を超えた叡智が宿っている。


 雷鳥が紬と九耀を見下ろし、「どうだ、ここまで来てみろ」と言わんばかりに翼を大きく広げて旋回した。


 九耀は雷鳥を神獣などではないというが、あまりに神々しい姿に思わず目を奪われた。


 まさしく神の鳥と呼ぶに相応しい威容だった。


 雷鳥の飛翔する方向が、まるで導きであるかのように思えた。


 紬と九耀は雷鳥を追って、雪と霧に包まれた峻険な山へと足を踏み入れた。


 山脈の麓に近づくと、嘆きの霧がふいに薄らぎ、辺り一帯が銀白の光に包まれた。


 霧の層が裂けるようにして、空に浮かぶようなひとつの山が姿を現した。

 その山だけが天空を仰ぐかのように純白に輝いていた。


「登ろう、九耀。わたしが支えるから」

「……すまない。紬」


 紬はよろめく九耀の背中を支えながら、天蓋の山脈を登った。


 高度を増すごとに、空気が冷たく澄んでいく。


 一歩、また一歩と登るたび、嘆きの霧は薄れ、凛とした静けさが高山を覆っていく。


 だが、山の頂へと近付くのと裏腹に九耀の腐敗は進んでいた。

 尾の先端が剥がれ落ちるたび、紬の心は軋んだ。


 それでも歩みを止めることなく、足を前へ、前へと踏み出し続けた。


 二足歩行から四足歩行となった九耀の姿にはもはや美しい妖狐の面影はなく、すっかり老いさらばえた一匹の獣のようだった。


 それでも、紬の手を取る力だけはかろうじて残っていた。


 手指の温もりは失われても、まだ意思疎通を交わすことができた。


「紬、君の手はあたたかいな」


 九耀がぽつりと呟く。


 山道の途中、九耀がその場に這いつくばって動けなくなった。


 九尾のうち八本が脱落しており、最後の尾が根元まで黒く染まり始めていた。


「山頂までもう少しだよ、九耀。あと少しだけ頑張って」


 紬がなんとか抱き起そうとするが、腐敗した身体が灰となって崩れていく。


 突如、雷鳴が轟き、天蓋の山頂に神々しい光が差し込んだ。


 霧を割くようにして雷鳥が降り立った。


 大地が震えるような荘厳な羽ばたきが紬の眼前に迫る。

 天蓋の山脈に降臨した神獣はハイマツの陰に身を潜めた。


 山道に這いつくばった九耀の輪郭が曖昧になり、金色の毛並みが淡い光に包まれ、粒子となって霧と一体化していく。ふと、花喰いの甘い匂いが香った気がした。


 ずっと紬の隣で支え続けてくれていた九耀の姿がどこにもなかった。


「……行かないで、九耀。わたしを独りにしないで」


 ハイマツのもとで遺灰となった九耀の欠片を集められるだけ、手で搔き集めた。


 九耀が嘆きの霧の中に消え去り、紬の手には遺灰の入った布切れだけが残された。


 一心同体のように旅をしてきたのに、お別れの言葉は何もなかった。


 深い霧の中、紬は完全に独りぼっちになった。


 紬を包み込むのは、無限に広がる嘆きの霧だけだった。


 悲しみと喪失感に打ちひしがれ、紬はその場に膝から崩れ落ちた。

 吹き荒れる風が紬の頬を撫で、冷たい霧が肌を刺す。


 その時、紬を包む霧がまるで生き物のように蠢き始めた。

 神の化身たる雷鳥の輪郭が象られていく。


 霧の奥から微かに声が聞こえたような気がした。それは九耀の声のようでもあり、しかし、もっと古く、もっと深く、遥か太古の記憶の底から響いてくるような声だった。


「――怖れるな」


 その声は紬の心に直接語りかけてきた。


 朧の魂の安息を願った純粋な祈りが霧の中に渦巻いているかのようだった。


「形あるものはいつか壊れる。生あるものはいつか滅す。世のすべてのものは移り変わり、また生まれては消滅する運命を繰り返し、永遠に変わらないものはない」


 まるで、この世界の摂理そのものを語るかのように、静かで、しかし揺るぎない声だった。


 九耀の腐敗も、朧の最期も、そして紬自身の運命も、この普遍のことわりの中にあったのだと、唐突に悟った。


 紬の目の前で、嘆きの霧が形を変え始めた。


 九尾を宿した幼い子供が青年の姿へと変じていく。


 その毛並みは純粋な白ではなく、淡い灰色の濃淡で描かれており、瞳は霧そのものの色をしていた。房状の九尾から霧がたなびき、周囲の嘆きの霧と溶け合っている。


 まるで、九尾自身がこの霧の根源であり、霧そのものであるかのように。


「……九耀?」


 紬が震える声で問いかけると、九尾の姿をした霧がまとわりついてきた。


「お前は、私を九耀と呼ぶか」


 その声は九耀の声でありながら、どこか神々しい響きを帯びていた。


 聞き慣れた九耀の声が次第に幾重にも重なり、地の底から響くような、あるいは天空から降り注ぐような荘厳な響きを帯び始めた。


「私は、お前が信ずる九耀であり、お前が救おうとした朧であり、この世界を覆う嘆きの霧そのものだ」


 紬の頭の中で、すべての点と点が繋がった。


 九耀の腐敗と消滅、朧の誕生と死は、世の理の一部であったのだ。


「何を願う、夜守紬よ」


「九耀と朧の眠る故郷に加護と安息があるように。世界に平穏があるように」


 嘆きの霧に問われ、考えるまでもなく言葉が口をついた。


「夜守紬よ、嘆くな。霧を渡り、灰を撒け」


 天蓋の山脈の頂上へ上り、遺灰を空中に撒いた。


 掌に残った温もりを確かめるように布切れを握りしめ、ゆっくりと天に向かって手を広げる。


 嘆きの霧は世界を腐らせ、大地を侵し、人々を嘆かせるだけの存在ではない。

 霧と触れ合えば、そこに愛おしい人の残滓を感じることができる。


 いつまでも霧が晴れない世であったとしても、それこそが夜守の加護となる。


 霧祓いの才を持った夜守紬にできること、それは世界の嘆きを祓うことだ。


 祓うべきは霧ではなく、悲嘆に暮れる嘆きなのだ。


「わたしは世界の嘆きを浄化する」


 九尾の遺灰が風に乗って世界を駆け巡り、ちっぽけな島国のみならず、世界にあまねく広がって、夜守の加護を受けた土地の萌芽となればいい。


 山を越え、海を渡り、言葉の違う異国の民のもとへも届くことを願う。


 そうして生まれた土地を、後世の人はこう呼ぶだろう。

 霧渡りの郷、と。

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九耀伝 夜守紬の霧死譚 神原月人 @k_tsukihito

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