第19話 悲しい偽装

 物が散乱した小汚い小屋の中へ案内された。


 崩れかけた棚の奥に、ひっそりと隠された作業台があった。


 ガラス製の蒸留器やフラスコ、様々な色の液体が入った小瓶が並んでいる。


 イソナは懐から取り出した小さな革袋から、乾燥した植物の葉を数枚取り出した。


 岬峠に濃く立ち込める嘆きの霧を特殊な方法で乾燥させたものらしい。それをすり鉢に入れ、鈍い音を立てながら丹念にすり潰していく。


 どうやら、イソナは霧を調合した密造酒を作っているらしい。


 イソナは棚から別の小瓶を取り出した。中には透き通った青い液体が入っている。


「それは?」


「浄化の泉で酌んだ水だ」


「……浄化の泉?」


「どんなに深い霧の中でも澄み渡り、触れる者を癒やすとされる伝説の泉だ。そんな特別な水を酒に変えちまうってんだ。なかなか豪勢だろう」


 イソナは浄化の泉から汲みあげた水をすり潰した霧の粉末に少量ずつ加え、ガラス棒でゆっくりと掻き混ぜていく。霧の粉末は瞬く間に水を吸い込み、粘り気のあるペースト状に変化した。


 イソナはペーストを蒸留器のフラスコに移し替え、台の下から小さな炭火用のコンロを取り出した。


 火を熾し、フラスコを熱する。


 温度が上がるにつれて、フラスコの中の液体が蒸気へと変わっていくのが見える。


 蒸気は細いガラス管を通って冷却器へ導かれ、再び液体となって別のフラスコへと滴り落ちていく。


 滴り落ちる液体は、最初のうちは無色透明だったが、次第に鈍い銀色に変化していった。


 これは霧が凝縮された色なのだろうか。


 イソナは液体の色と粘性を、貴重な宝石を鑑定するかのように真剣に見つめている。


 おもむろに古びたかめを取り出した。甕の中にはすでに熟成されたらしい琥珀色の古酒が満たされている。


 イソナは蒸留器から得られた銀色の液体を、甕へ惜しみなく注ぎ込んだ。銀色の液体はゆっくりと酒に溶け込み、混ざり合っていく。


「これだよ、これ。揮発する毒。いや、揮発する魂とでも呼ぶか。ただの酒なんかよりも、よほど酔える」


 イソナは甕から柄杓で酒を掬った。銀色の液体がゆっくりと蒸気となって立ち上ってく。蒸気は霧のように空間を満たし、小屋全体を薄い銀色の靄で包み込んだ。


「どうだ、あんたらも」


 イソナはにやけた顔で霧の密造酒を勧めてきた。


「いいや、遠慮する」


 九耀がやんわりと酒を断った。銀色の靄は紬の周りを渦巻くように漂い、アルコールと霧の混ざったただならぬ匂いを嗅いだだけで頭の芯を痺れさせるような感覚を覚えた。


 イソナは柄杓に掬った銀色の液体を一気に煽ると、「くっ……」と呻き声を漏らし、顔を顰めた。


 だが、すぐにもう一杯、もう一杯と立て続けに飲み、甕を空にせんばかりの勢いで密造酒を呷り続けた。顔はみるみる赤みを帯び、その目に異様な光が宿っていた。


「霧祓いは良いように使われて捨てられる。俺の足が腐り落ちたのもそのせいだ」


 イソナは失われた片足を見やった。


 棒切れ同然の義足が取り付けられているが、嘆きの霧を吸い込んだせいで毒が回り、片足を切り落とすしか術がなかったのだろうか。


「どうせ、もうじき世界は終わるんだ。あんたたちも飲もうぜ」


 呂律の回らない口調で、イソナはしきりに酒を勧めてきた。彼の目つきはどんよりと濁っており、九耀がひと口たりとも酒を飲まないことに腹を立てた。


「腐った身体にゃ、これがいちばんだ。さあ飲めよ」


「遠慮する。霧祓いの才をこんなことに使うとは哀れな末路だな」


 九耀が哀れんだ目でイソナを見つめた。


「なんだと、腐った狐の分際で」


「たしかに私は尾が腐っているが、あんたは性根が腐っているな」


 イソナは九耀の言葉に眉をひそめたが、すぐにその表情を元に戻した。

 酒を呷り、ふと自嘲気味に笑う。


「何もかもが腐るのさ。この霧の中ではな」


 イソナの言葉には諦めと深い絶望が込められていた。

 彼の心もまた、霧によって深く蝕まれている。


 小屋の中に重い沈黙が降りた。


「いつからこうなっていたの、九耀」


 不意に紬が問いかけても、九耀は黙りこくっていた。部外者のイソナの手前もあってか、なにも答えはしなかったが、たぶんだが、なにもかも紬のためだ。


 九耀の完璧な美しさは、自らの朽ちていく身体を、そして紬の無知を隠すための悲しい偽装だった。

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