第20話 約束
岬峠からずいぶん離れた岩場で野宿をした。
焚き火の残り火が、ぱち、ぱち、と音を立てていた。
草も木も沈黙し、霧だけが風に吹かれ、ゆるやかに流れている。
紬は九耀の背を見つめていた。金色の尾の根元には黒い斑が浮かび、じわりと滲むように腐敗が広がっていた。九尾の尾の半数は枯死して脱落し、残る尾も朽ちかけている。
そっと手を触れると、灰色の粉が紬の掌からそっとこぼれ落ちていく。
「どうして、こんなになるまで隠していたの」
九つに分かたれた尾の本数をいちいち数えたことはなかった。
尾はそれぞれが意志を持ったように動くから、尾の一本や二本が欠けていても気がつかなかったが、尾の半数が失われればさすがに気がついた。
「隠す必要があった。君に醜い姿を知られたくなかった」
九耀の完璧に美しい姿は、日に日に腐敗していく姿を誤魔化すための偽装だった。
九尾の尾が妖力の源であるなら、それを失ってしまうとどうなるのだろう。
残酷な答えを聞きたくはないが、どうしても聞かずにはいられなかった。
「ねえ……」
紬がぽつりと声を漏らす。
「全部の尾が朽ちたら……どうなるの」
九耀はしばし黙っていた。
炎を見つめたまま、ぽつりと呟く。
「九尾の尾がすべて朽ちる時、私は――ただの獣に戻る」
「獣に……戻ると、どうなるの」
紬の声は震えていた。九耀は静かに微笑んだ。
「どうもならない。ただ消えるだけさ。人の言葉も、妖狐の姿も、霧祓いの力も、すべてが夢だったみたいに跡形もなく消える」
にわかには受け入れがたい事実を聞かされ、紬の喉奥が詰まる。
九耀はすっかり運命を受け入れているのか、淡々と告げた。
「紬、君に出会わなければ、私はとっくに朽ちていた。霧の毒に呑まれて、泥にまみれた小さな獣として、誰にも見つけられず死んでいた」
いつになく弱弱しい存在を紬は思わず抱きしめた。
「……九耀」
「君が手を差し伸べてくれたから、私は命をもらった。たった一匹の狐がこんなにも長く生きられた。君と世界を見て歩けた」
紬の目に涙が滲む。九耀の大きな手が紬の髪をくしゃりと撫でた。
その手つきは優しく、そして、どこか諦めに満ちていた。
「泣かないでおくれ、紬」
「でも――」
「妖力のない狐が一匹、死するだけさ」
「違うよ……、九耀は……」
「私はもう十分に生きた。君と歩けたこの霧の道は、私の生きた証だ」
九耀の指先から温もりを感じられなかった。尾の喪失のせいか、体温も失われていた。
「尾が全部なくなっても君のことは忘れない。たとえ何も残らなくても私は幸せだった」
すぐそこに永遠の別れが近付いているのが受け入れられない。
流れる涙を必死に堪え、紬はただうなずくしかなかった。
「……浄化の泉」
紬が縋りつくように言った。イソナが密造酒に混ぜた水は、どんなに深い霧の中でも澄み渡り、触れる者を癒やす伝説の泉から汲んだ水だという。
酒に混ぜるのではなく、純粋に水だけを飲んだら、九耀の腐敗の進行を抑えることができるのではないだろうか。
「浄化の泉を探そう。伝説の水を飲めば、朽ちるのが止まるかも」
「ありがとう。だが、もういいんだ」
「諦めないでよ、九耀」
「最後まで供にいるよ。それだけは約束する」
「約束だよ、九耀。わたしを独りにしないでね」
「ああ、約束だ」
日中にあれほど霧を祓ったはずなのに、霧が晴れたのはわずかな時間だけだった。
その夜も、嘆きの霧はひそやかに空を満たした。
月明りさえない漆黒の闇のなか、九耀に抱かれて夜を過ごした。
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