第18話 腐った狐と終末の酒
潮の匂いが混じった風が頬を撫でる。
岬の峠に向かって歩いていると、岩肌にしがみつくようにして建つ小屋があった。
小屋の周縁に不自然なほど霧が渦巻いているが、渦の中心にある小屋だけは台風の目のように晴れていた。
「九耀、見えた?」
「渦の中心だけ、霧が蒸発しているみたいだな」
「漁師のおじいさんが言っていた霧祓いが住んでいるのかな」
霧祓いの才を、霧を体内に吸い込むだけではない用途に使っているみたいだ。
渦巻く霧は他者を寄せ付けない外壁を思わせるが、台風の目に位置する小屋をどうして認識できたのか、紬自身にも不思議だった。ただの直感だが、あの小屋を訪れなければいけないような気がした。
「行ってみよう、九耀」
「用心しろ、紬。好奇心は猫を殺すというぞ」
「九耀は気にならない? 私たち以外の霧祓いがどんな風に暮らしているか」
「他人のために霧を祓っていそうには見えないな」
九耀が渋るが、紬に渋々従った。
岬の突端に近付いてみると、渦巻く霧は刃のように鋭く、唸りながら切り付けてくるようだった。とてもではないが、手を触れられそうもない。
「ごめんください。霧渡りの郷から来た夜守紬と申します。少しだけご挨拶させていただけませんか」
紬が渦巻く霧に向かって話しかけるが、霧は余計に分厚さを増した。
「どう見ても歓迎されていない。帰ろう、紬」
九耀が立ち去りたそうにしているが、紬は聞き入れなかった。
「すみません、ちょっとだけお会いしていただけませんか」
紬が霧の渦に向かって呼びかけると、青年と中年の境にいるような無精髭の男が姿を現した。鬱陶しそうに髪を掻いている。手には酒瓶が握られており、酩酊しているのか、顔が赤らんでいた。
片脚は失われおり、棒切れ同然の義足が取り付けられている。
渦巻く霧が左右に割れた。
「土産は?」
無精髭の男がさも当然のように土産を要求した。
手ぶらの紬を見るなり、しっしと犬を追い払うような真似をした。
「帰れ。なんの見返りもなく霧祓いの才を振るってやるものか」
どうやら、霧を祓う代わりに物品をせしめているらしい。
「腐った魚でいいか」
霧祓いの才を利己的に用いることに虫唾が走ったのか、九耀が挑発するような物言いをした。酩酊した男の視線が九耀の尾に向けられた。
「……あんた、もう末期じゃないか」
男はぐびりと酒を呷り、ゲラゲラと高笑いした。
「笑えるな。腐った狐が腐った魚を差し入れに来たか。なんの冗談だ」
いったい、なんのことか紬にはわからなかった。
末期。
腐った狐。
紬は、はっと気がついた。
いつもは霧に隠れていて、九耀の尾の状態をしっかりと確認したことがなかった。
霧のない台風の目の中で九尾を凝視すると、どの尾も色がくすみ、腐ったように黒くなっている。試しに指先で触れてみると、表面はざらつき、朽ちた尾の欠片がぱらぱらと粉のように舞い散った。
「ねえ、九耀。尾が腐っているんじゃないの」
霧に隠れていない中で見ると、九耀はまるで別人のようだった。
美しい虚飾が剥ぎ取られ、腐敗の刻印が露わになっていた。
透き通るように白く柔らかな皮膚のあちこちに、嘆きの霧の毒に侵された、どす黒い腐敗の跡が浮かび上がっている。
これはまるで、朧の小さな身体に現れた腐敗の刻印と瓜二つだった。
「九耀……」
「大したことはない。少し傷んでいるだけだ」
そういえば、生まれたばかりの朧に腐敗の刻印があるのを見て、いちばん衝撃を受けていたのは九耀だった。歓喜する郷の民たちをよそに、九耀はたしかこんな反応をした。
「なんてこと……」と驚き、声を失った。
思わず嘆いてしまったのは、腐敗の刻印をひた隠しにしていた九耀の汚染が、はっきりと子供に移ってしまったのをショックに思ったからだろう。
嘆きの霧が晴れた空白地帯で、銀色の美しい毛並みが一本、また一本と、不自然に黒ずみ、毛が抜け落ち、皮膚はただれたように変色していく。腐敗の進行は驚くような早さだった。
澱み凪の浜を歩いている際、魚の腐敗臭が鼻についたが、あれはひょっとして魚の腐った匂いではなく、九耀が腐敗していっている匂いだったのではないだろうか。
「ああ……」
紬は思わず、声にならない悲鳴をあげた。
朽ちた尾の一部が、灰のように紬の指の間からこぼれ落ちていく。
「霧を吸い込み過ぎたか。力を使い過ぎた代償だ」
無精髭の男が酒を呷りながら、同情するでもなく、冷たく言い放った。
「
「どういうこと? 九耀は不死の存在なんじゃないの。わたしの霧渡りの才を分け与えられて、いくらでも霧を吸い込めるんじゃなかったの」
紬が取り乱すが、男は嘲りの混じった薄笑いを浮かべた。
「ただの獣に霧祓いの力を分け与えたか。それが不死の存在だと。笑わせるな」
酒臭い息を吐き出し、男は容赦なく責め立ててきた。
「小娘、貴様は何も知らないのだな。たかが獣が不死だなどと、そんなお伽噺のような話を本気で信じていたのか」
「九耀はただの獣じゃない。九尾の妖狐だ」
紬が必死に反論するが、内心では九耀が語った事に対する信頼がぐらついていた。
「嘆きの霧を無限に吸い込めると思うか。なぜ自分だけが霧の毒を食らっても腐敗しないと信じられる。その傲慢さはある意味、尊敬に値するな」
鋭い刃のような言葉に切り付けられ、紬は絶句した。
「九耀、尻尾に触るよ。嫌だったら言って」
「好きにしてくれ」
不機嫌というよりも、どこか投げやりな感じのする許可だった。
紬がおそるおそる尾に触れると、そよ風が撫でたようなわずかな力で、まるで枯れ葉のように脆く崩れ落ちてしまった。
美しい妖狐は実は身体がボロボロに腐っていて、表面的な美しさは腐敗する身体を隠す偽りの姿だった。特に食べなくても平気で、不死の存在だというのも嘘だろう。
どのみち身体が朽ちていっているから、何を食べても無駄なのだ。
そして、花喰いの甘い匂いは腐臭を誤魔化すための匂い消しだった。
「いかん、いかん。酒を飲むと、どうにも絡んじまう。だが、俺の見立ては当たっていただろう。俺も霧祓いだった。そんじょそこらの霧祓いとは違う、とびきり優秀な霧祓いだった。いくらでも霧を食える。俺は特別な存在だ。そう思った時もあったね」
男は自尊心を露わにしたが、その声音にはどこか卑屈な響きがあった。
「それで、このザマだ。回復不能の毒を呷って瀕死の目に遭った」
特別な優秀さが仇となったと言わんばかりだ。男は棒切れ同然の義足辺りに手をやって、虚空を弄っている。失った片脚を無意識に撫でているかのようだった。
九耀は尾だけでなく、感情まで朽ちていっているかのように目が澱んでいた。
「生まれながらに腐敗の刻印がある子の血を啜れば、霧に侵されなくなる。そう信じる郷の民たちに我が子を奪われた。あんな思いをするぐらいなら、自分の身体が朽ちる方がマシだ」
「そんな迷信を真に受ける馬鹿ばかりだ。おめでたい連中だな」
酩酊した男はいささかの同情を示すと、小屋の中へ誘った。
「入りな。俺はイソナ。終末の酒でも楽しもうじゃないか」
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