第15話 リアム博士

 繭村を後にした紬と九耀は、再び濃い霧の中を進んでいた。

 サグリとの出会いに、割り切れない無力感ばかりが募っていた。


「霧が濃いな」

「そうね。わたしが霧を祓おうか」


 行く先がまったく見えないほどの濃い霧が分厚く垂れ込めていた。


「いいや、身体にさわる。私が霧を祓うよ」


 霧の中ではぐれないよう、九耀は紬の腰に尾を巻きつけていた。


 産後の体調を心配してか、紬に霧を吸わせるような真似はほとんどさせなかった。


 この辺りの霧は、霧渡りの郷の周囲と比べると重く、鈍い毒気を帯びているように感じられた。九耀が周囲の霧を吸い取るたび、金色の九尾が深く黒ずんでいく。


「九耀、尾が……」


 ふさふさとした九尾が毛羽立ち、心なしか艶を失っているような気がした。


 濃い霧の中では見過ごしてしまうが、九耀も霧の毒を吸って身体を蝕んでいるようだ。


「無理しないでね、九耀。交代で霧を祓おう」


 紬が提案するが、九耀はあっさりと一蹴した。


「私は妖狐だ。不死の存在と言っていい。いいかい、紬。霧は私が吸う。気持ちはわかるが、あまりみだらに力を使うな。いいね」


「……うん」


 九耀に心配ばかりされているが、実のところ、九耀のことが心配だった。


 食事をするのはもっぱら紬ばかりで、九耀はほとんど何も口にしていない。


 美しい容貌は相変わらずで、食事を必要としないことが不死の存在である証左なのかもしれないが、ただのやせ我慢のようにも思えてならない。


「九耀もたまには食べなよ」


 サグリから貰った螢繭虫の保存食を押し付けるが、九耀は受け取らなかった。


「いや、いい。紬が食べろ」

「たまには食べなきゃだめだよ。食わず嫌いは駄目」


 蛍繭虫の見た目は毒々しいが、目を瞑って食べれば、食べられない代物ではない。

 それにサグリの厚意を無下にするような真似もできない。


「いいから食べて」

「私は妖狐だ。食べなくて平気だ」

「食べなきゃ駄目だって」


 霧の中で押し問答が続いたが、紬の強情さに根負けしたのか、九耀は蛍繭虫の保存食をひとまず受け取るだけ受け取った。受け取りはしたが、口に運ぶ素振りはない。


「早く食べなって」

「今はいい。腹は減っていない」

「ほんと、九耀は強情だよね」

「紬ほどではない」


 遂には紬も呆れ果て、九耀が食事を取らないのを黙認した。


 何日も歩き続け、やがて周囲の景色は一変した。


 森や岩山は消え失せ、霧の中に巨大な影がぼんやりと浮かび上がる。


 それは錆びついた鉄骨の森だった。巨大な建物が崩れ落ち、無数の機械の残骸が剥き出しになっている。鋼鉄の残骸都市といった佇まいだった。


「なにか、今までの場所とは雰囲気が違うね」

「ああ、そうだね」


 朽ちた鉄の匂いと、冷たい湿気が肌を刺す。


 おそるおそる廃墟の奥へと進むと、微かな金属音が聞こえてきた。


「人がいるみたいだな」


 トン、トン、トンと一定のリズムで響く音に九耀が警戒を強める。


 音のする方へ向かうと、崩れた建物の谷間に、小さな明かりが見えた。


 背を丸めて、何かしらの作業に没頭している男の姿があった。

 男はボロボロの白衣を羽織り、顔には煤と油がこびりついている。


 周囲には使い古された工具、奇妙な形をした機械の部品が散乱している。

 男は何かを懸命に叩き、削っているようだった。


 入り組んだ複雑な形状が黒鉄の心臓を思わせる。


 邪魔をするのは忍びないので、しばらく作業を見守っていることにした。やがて作業が一段落し、白衣の男がふと顔をあげた。年寄りではないが、そう若くもなさそうだ。


 疲れ切った表情をしているが、顔の彫りは深く、髪は灰がかった白金で、長くゆるやかに波打っている。瞳は青みがかっていて、どうやら異国の民のようだ。


「こんにちは、あの……」


 言葉が通じるのか、紬がまごついていると、白衣の男が微笑した。


「おや、お客さんかな」


 言葉が流暢なのは、現地の民から言葉を学んだかららしい。


「私はリアム・ナイトレイ。研究都市アストラルムから流れ着いたしがない研究者だ。ここはおそらく日本なのだろう。極東のちっぽけな島国だとばかり思っていたが、霧瘴むしょうに対する自衛策は秩序だっていて、なかなかどうして興味深い」


 リアム博士は高度な文明を持つ、広い世界からやって来た偉人なのだろう。

 紬の住まう世界を、ちっぽけな島国と評する程の見識があるみたいだ。


「……むしょう?」


 耳慣れない言葉だったので、紬が思わず聞き返した。


「霧がもたらす災厄のことだ。この国では霧瘴のことを何と呼んでいるのだい」


 リアム博士は霧に関わるどんなことも貪欲に知りたがった。


「嘆きの霧」

「ずいぶんと詩的な名前だね」


 リアム博士が感心したように言った。


「時にお嬢さん、あなたのお名前は?」


「夜守紬」


「夜守とはどういう意味ですか」


「……意味? 夜を守るとか、そんなような意味かと。そんなに深い意味があるのか、わかりません。霧渡りの郷に住んでいた民は皆、夜守と名乗っていました」


 紬が困惑気味に答えるが、リアム博士は大いに感心したようだ。


「ふむ、夜を守る。夜守、つまり夜警、ナイト・ウォッチか」


 リアム博士は霧に深く侵されているのか、ゴホゴホと咳き込んだ。


 繭村で出会ったサグリと似たような悪い咳だ。


 サグリに対して、何もしてやれなかった無力さが思い返された。


 気休めにしかならないかもしれないが、リアム博士に手をかざした。


「わたし、霧を祓えるんです。祓うというより、吸うと言った方が正確かな」


「霧瘴を吸えるのですか。吸った霧はどこへ行くのです?」


 リアム博士が驚きの目で紬を見つめた。


 霧の毒は体内に蓄積します、と答えるのが適切なのか、わからなかった。


 サグリと同じく、たぶんこれっきりもう会わない相手だから、余計な心配をさせることはないと思った。


「霧の毒は体内に溜まって、それから循環します」


「それは凄い。循環する霧か。考えてもみなかったアイデアだ」


 紬がずっと手をかざしていると、リアム博士の顔色が徐々に良くなってきた。


 リアム博士が遠い目をした。


「私にも娘がいてね。エレノアという。あなたと同じぐらいの年頃だろうか。心臓が良くなくてね。エレノアの心臓を治すため、鉄の人工心臓を作ろうとしているが、とにかく素材が足りない。設備もない。動力もない。なかなか困難な戦いだ」


 娘思いの優しい父親らしい側面が垣間見えた。

 それがどうして極東の島国くんだりまで流れ着いたのだろうか。


「研究都市にいらっしゃったほうが心臓を作るには好都合なのではないですか」


 リアム博士が首を横に振った。


「いいや、アストラルムは霧瘴の震源地だ。どこもかしこも霧に侵されていて、都市機能はすっかり麻痺している。これは私の同僚の科学者が言っていることだが、霧瘴は腐らせることで世界をやり直そうとしている。なんでもかんでも科学の力で解決できると思い上がった人類に浄化をもたらす祝祭となるだろう、などと極論を呈して顰蹙を浴びている」


 内容が高度過ぎて、紬はすぐには理解できなかった。


 紬の傍らに控えていた九耀がリアム博士の言葉を反芻した。


「霧瘴は腐らせることで世界をやり直そうとしている」


「ああ、その通り。霧瘴は我々科学者が腰を据えて対応しなければならない喫緊の課題だ。解決までに五十年、いや百年はかかるだろうか」


「霧瘴の解決の道筋は見えているのでしょうか」


「いいや。その前に私の肉体が限界を迎えるだろう。霧瘴に侵されても平気な予備身体バックアップ・ボディを作って、複製人格クローン・パーソナリティの挿入、義体への本意識転送リアル・トランスファーを行うのはどうかと考えているが、現状では難しい。どこから手を付けたものか課題が山積みだ」


 研究のアイデアは豊富にあるようだが、研究都市が霧瘴でほとんど壊滅してしまっているため、どの実験にも手を付けられていないという。


「九耀、理解できた?」

「おおよそのところは」

「凄いね。わたしなんか、ちんぷんかんぷん」


 研究に関する話題は紬にはさっぱり理解できなかったが、嘆きの霧が覆っているのは、ちっぽけな島国だけではなくて、全世界的な災厄であるということは理解した。


 嘆きの霧が発生する機構や全貌は不明だが、研究都市アストラルム界隈での何らかの実験が災厄に関わっているらしい、と知れたのは収穫だった。


「博士はどうして島国にいらっしゃったんですか」


 霧の毒を祓いながら、紬が訊ねた。


「霧瘴がどこまで世界に影響を与えているか、いちど自分の目で確かめてみたかった。もし霧瘴が届いていない地域があれば、娘とともに移住をしようかと考えていたのだが、甘かったようだ。どこも同じだ。霧瘴が広がっていない安全な場所などどこにもない」


 リアム博士が項垂れた。


「お嬢さんも一緒に旅を?」


「いいや、私だけだ。娘の心臓は長旅に耐えられない。霧のない新天地を求めるのは誰も同じだな。密航のようにやって来たのだが、アストラルムに帰り着けるか心配だ」


 長話になっている間、紬はずっと霧を吸い込み続けていた。


 九耀がさりげなく、「もういいだろう。これ以上は身体に障る」と止めた。


「できるだけ毒を抜いてみたのですけど、体調はいかがですか」


 リアム博士の白蝋めいた血の気のない顔に生気が戻っていた。


「生き返ったような気分だね。まるで霊媒師シャーマンだ。あなたの手には精霊が宿っているのかな」


 あまりにも大袈裟に喜ばれ、紬はくすぐったい気持ちになった。


 サグリに対して何もしてやれなかった無力感がほんのちょっと和らいだ気がした。


「お嬢さんの心臓、良くなるといいですね」


「ああ、ありがとう。きっと大丈夫だ。私には夜守ナイトウォッチの加護がついている」


 リアム博士は洒落っ気たっぷりに言い、別れ際に抱擁をした。


「お元気で」

「ええ、あなたも。夜守のお嬢さん」

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