第16話 浄化
鋼鉄の残骸都市を離れ、紬と九耀は旅を続けた。
紬は霧渡りの郷で脇腹を弓矢で貫かれたが、九耀の処置が適切であったためか、引き攣れていた脇の傷はとうに塞がり、歩行に困難をきたすようなことはなかった。
紬の脇腹には相変わらず、九耀の尾が巻き付いている。
視界のきかない霧の中で迷子防止のためでもあるが、九耀がそれとなく尾を通じて、霧の毒を祓ってくれているのがわかる。
おかげで、紬は霧を吸っても体調を崩すことがなかった。霧を祓い過ぎた反動で寝込むようなこともない。紬の体調面に不安はなかったが、気がかりなのは九耀のほうだった。
歩行がいささかゆっくりになり、時折よろけたりしている。花喰いの甘い匂いに、どことなく腐敗臭が漂うような気がした。隣を歩く九耀の息があがっていた。
「大丈夫? 少し休憩しようか」
「いや、必要ない」
九耀が強がるが、特に旅の目的地はない。あえて旅の目的を掲げるなら、朧の魂が休まる安息地を探しているぐらいだ。どだい急ぐような旅ではない。
「わたし、疲れちゃった。少し休もう」
「そうか。なら休もう」
紬が休憩を申し入れると、九耀も従った。ごつごつした岩場がちょうどいい椅子になった。岩に腰を下ろした九耀はすっかり疲弊しており、くたびれ切った身体を休ませ、息を整えた。
九耀に明らかに疲労の兆候が見えるが、そもそも食事を取る必要のない不死の存在である妖狐は疲れを感じるものなのだろうか。
「ねえ、九耀。ちょっとおかしいよ。霧を吸い込み過ぎているんじゃないの」
歩く最中、九耀がどれほど霧を吸い込んでいるのかわからない。安全な旅を続けるためには霧を祓ったほうがいいが、九耀がここまで疲労しているのは気がかりだった。
「大したことはない。少し考え事をしていただけだ」
「考え事?」
「ふだん使わない頭を使うと、疲れるものだろう」
九耀が疲れているのは、考え事をし過ぎたせいらしい。
「どんなことを考えていたの」
「御骨平原で会った徘徊僧が言ったことを覚えているか」
「うん、だいたいは」
紬は物覚えが悪いほうではない。明厳が口にしたことを思い出そうとした。
嘆きの霧には二つの側面がある。
人為的な災害である側面と、人の嘆きと穢れを吸い込んだ精神的な呪いである側面と。
「明厳は嘆きの霧が晴れるにはどうすればいいと言ったか」
「嘆きの霧が晴れるには人の心が浄化されなければならない」
「ああ、そうだ」
九耀がなんだか先生のように頷いた。
「一方で、リアム博士は何と言っていたか」
「霧瘴を解決するには五十年か、百年ぐらいはかかる」
「そうだが、私が考えていたのはリアム博士の同僚の科学者が言ったことだ。霧瘴は人類に浄化をもたらす祝祭だ、という発言だ」
九耀が言いたいことが、なんとなくだが理解できた。
「同じだね。どちらも浄化という言葉を使っている」
徘徊僧の明厳、科学者のリアム博士、どちらも浄化が鍵になると考えているようだ。
しかし、正解ではなかったのか、九耀はやんわりと首を横に振った。
「よく考えてごらん、紬」
九耀が重々しい口調で言った。
「魂を浄化する。人類を浄化する。表現は似通っているが、言っていることは正反対だ」
「……あっ」
指摘されてみて、ようやく意味合いの違いに気がついた。
「魂を浄化するなら、人類にもたらされるのは救済だ。人類を浄化するなら、もたらされるのは滅びではないか。言い換えると、嘆きの霧は人類を滅ぼす装置だということだ」
人類滅亡のための装置――嘆きの霧。
にわかには受け入れられないが、実際のところ、そのように機能している。
そして、人類の滅亡を祝祭だと訴える科学者が存在する。
「研究都市アストラルムという場所には、ずいぶんと危険思想の科学者がいるようだな」
九耀が吐き捨てるように言った。
紬は擁護する立場にないが、リアム博士は善人ぽかった。心臓を病んだ娘のために異国に密航して、鉄の心臓を作ろうとするぐらいの家族思いの人だった。
「リアム博士は良い人そうだったよ」
「どうだかな。科学者という人種は信用できない」
妖狐になる以前、純然たる狐だった時に嫌な思いをしたのか、九耀は科学的なものをひとまとめにして嫌っていた。気持ちはわからないでもないが、紬にはどうしようもない。
「アストラルムってどこにあるのかな。遠いのかな」
「さあ、どうだろうな」
いろいろと物知りな九耀も地理にはあまり詳しくないようだった。
ちっぽけな島国から遠くにある研究都市に端を欲した霧の災厄。
問題の解決には科学者が百年越しで挑まねばならないほどの課題。
いずれにしてもスケールが大き過ぎて、嘆きの霧の根本的な対策は講じられそうもない。
結局のところ、紬にできることといえば一つだけだった。
休憩を終え、紬が立ち上がる。
「わたしたちにできることは、目の前の霧を祓うことぐらいだよね」
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