第14話 繭村

 御骨平原を後にして、紬と九耀はさらに濃くなった霧の中を歩き続けていた。


 視界不良のなか、ただただ歩き続ける旅路は霧の中へと迷い込んでいるようだった。


 ぼんやりとした霧の向こうに、いくつかの光が見えた。それは燃える炎のような力強い光ではなく、儚く瞬く頼りない光だった。


「あそこに集落があるな」


 九耀がどことなく警戒するように言った。


「ちょっと立ち寄ってみましょうよ」

「余所者は警戒されるぞ」

「そうだね。でも良い人もいるかも」

「そう願おう」


 光に導かれるようにして進むと、霧の中に小さな集落が現れた。粗末な木造の家々が寄り集まっており、その周りに楕円形の繊維の束がいくつもぶら下がっている。


「九耀、あれはなに?」


「たぶん繭じゃないか。蚕が蛹になる際に、自分の身体から分泌する糸で作り出す覆いだ」


「へえ、そうなんだ。九耀は物知りだね」


 繭からは青白い光が漏れ、村全体を淡く照らしていた。


 村落に足を踏み入れると、一人の少年が無数の繭の間から顔を覗かせた。


 年齢は十歳そこらくらいだろうか。紬よりもだいぶ年下のように見える。

 がりがりに痩せた身体で、細い腕には奇妙な斑点がいくつも浮き出ていた。


 少年は二人に気付くと、警戒する様子もなく、好奇心に満ちた目で近付いてきた。


「旅の人? こんな奥地まで珍しいね」

「私たちは旅の者です。ここは……」


 紬が尋ねると、少年は人懐っこい笑みを浮かべた。


「ここはけんそん。ぼくはサグリ。ここでほたるまゆむしを育てて、その糸でを織っているんだ」


 サグリはぶら下がっている大きな繭を指差した。


「この繭虫は霧の毒に強いんだ。ぼくらが着ている霧衣は、この糸で織られているから、霧の中でも身体が侵されないんだよ」


 サグリが身につけている衣は、淡く光る独特の光沢を放っていた。

 紬と九耀は互いに顔を見合わせた。


 霧の毒を防ぐ衣。


 それは、この過酷な世界を生き抜く上で、どれほど貴重なものだろうか。


 旅の最中、しばらく何も食べていなかったので、紬のお腹が鳴った。

 空腹に気がついたサグリは奥の小屋へと手招きした。


「お腹が空いているでしょ。少しだけど分けてあげるよ」


 小屋は作業場と住居を兼ねているようだった。壁際には織りかけの布が何枚も吊るされ、部屋の隅には霧毒を防ぐための薬草が干されていた。


 サグリはいそいそと火を熾すと、棚から小さな包みを取り出した。


「これ、螢繭虫の幼虫を乾燥させて餅米と混ぜて固めたものなんだ。そこそこ保存も効くし、栄養もあるんだよ。味はあまりしないけど」


 差し出されたのは、掌に収まるほどの小さな塊だった。一部が黒く変色し、青緑の斑点がぽつぽつあって、見た目はあまり良くないが、紬は勧められるがまま一口かじった。


 素朴な味わいだが、貴重な食料を分けてくれるのが何よりもありがたかった。


 見た目は毒々しかったが、霧の毒に強い螢繭虫の幼虫を混ぜた食べ物であるから、仕方のない部分もあるだろう。この過酷な世界で生きる術を凝縮したかのような、独特の生命力を感じる一品だった。


 食事をしながら、サグリは懸命に村の生業について語った。両親とはすでに死別しており、彼は幼いながらも、村の重要な役割を担っていることがよくわかった。


「ねえ、旅の人。どこから来たの?」


 サグリが興味津々に尋ねた。


「……霧渡りの郷から」


 紬は言いづらそうに答えた。


 サグリの目が大きく見開かれた。


「えっ、うそ。霧渡りの郷って、本当にあったんだ……」


 サグリは尊敬の面持ちで紬をじっと見つめた。

 その眼差しは、まるで伝説の存在にでも出会ったかのようだった。


「ぼくだけじゃない。繭村の誰もが霧渡りの郷は伝説だと思ってるよ。あそこはどんな土地よりも霧が薄いって話だけど、ほんとうなの?」


 サグリの声は興奮で上ずっていた。


 霧渡りの郷は繭村の界隈では、ある種の伝説のようだった。


 郷の霧が薄いのは、霧祓いの才を持つ紬が霧を祓っていたからだ。それ以上の理由はない。


 サグリはゲホゲホと激しく咳き込み、痩せ細った身体が小刻みに震えた。

 嘆きの霧の毒に侵されているのは明らかだった。


「サグリ……。君はこの霧衣を着ていても、霧の影響を受けているの」


 紬が尋ねると、サグリは少し悲しげに笑った。


「霧衣は万能じゃないからね。どうしても肺に毒が溜まっちゃうんだ。ぼくだけじゃない、村の大人たちもみんな肺をやられてる。みんなそろそろお迎えが近い」


 幼さとは裏腹の達観した物言いに、紬の胸が締め付けられた。


 繭村の誰もが嘆きの霧と戦いながら、それでも懸命に生きている。


「ねえ、旅の人」


 サグリが紬の顔を真っ直ぐに見つめた。


 彼の目は霧に侵されながらも、純粋な澄んだ光を宿していた。


「霧渡りの郷の民は、霧の中でも自由に移動ができるんでしょう。だから、霧渡り。ぼくもいつか霧渡りになれるかな」


 そんな憧れるようなものではない。

 しかし、余命幾ばくもない少年の憧れをむざむざ壊すものでもない。


 紬は少しだけ霧を吸い込んで見せた。

 サグリが憧れの眼差しで見つめた。


「わたしは身体の中に霧を取り込むことができる。たぶん、生まれつき。霧を渡るというより、霧を祓うの」


「うわっ、すげえ」


 サグリはどこからともなく持ってきた螢繭虫の保存食を紬に押し付けた。


「これ、持って行って」

「大事な保存食でしょう。貰えない」


 紬が固辞するが、サグリはどうしても貰ってほしいと譲らなかった。


「いいから持って行って。ぼく、伝説の霧渡りに保存食をあげたんだぜって自慢したいから」


「……ありがとう」


 保存食を受け取った紬は、お返しにサグリの肺に触れた。

 紬があまりに真剣な表情で手をかざしたので、サグリが面食らった。


「お姉ちゃん、なにしてるの」

「おまじない。肺の毒が少しでも良くなるように」


 サグリが悲しそうに笑う。


「ありがとう。でも、もういいよ。もうすぐ死ぬんだろうなってことは、なんとなく自分でもわかるから」


 サグリはやんわりと紬の手を解き、繭村の外へいざなった。


「この村にあまり長居はしない方がいいよ。肺を病んじゃうから」


 ばいばい、と言って、満面の笑みを浮かべてサグリが手を振った。

 ゴホゴホと湿った咳をしながらも、笑みが消えることはなかった。


「会えて嬉しかった。じゃあね、お姉ちゃん」

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