第13話 御骨平原
九耀に介添えされながら、見知らぬ道をひたすらに歩き続けた。
どれほど霧渡りの郷から歩いてきただろうか。
紬と九耀が霧を祓うお努めを果たしていないからか、周囲の霧がいちだんと濃くなっている気がした。
足元の土は
周囲に人けはないが、平らで広々とした土地に迷い込んだ。
地面に無数の白い骨が散らばっていた。動物のものか、人のものか、判別もつかないほど朽ちた骨が霧の中にぼんやりと浮かび上がっている。平原全体がまるで巨大な墓場と化したかのようだった。
「……ここは」
気味の悪さに悲鳴が漏れ、紬が思わず九耀に縋りついた。
九耀のいつも通りに無表情だが、わずかに緊張しているようだった。
「朽ちて還れ、土へと還れ、生者の嘆きも、死者の安らぎも、皆、霧に抱かれて」
霧の奥から、葬送の詩を口ずさむ声が聞こえた。
ゆらりと姿を現したのは、朱色の衣をまとい、数珠と鈴を手にした僧だった。
一見すると、人とも獣ともつかない野性的な存在感を醸し出している。
「ここは
紅衣の徘徊僧――明厳がゆっくりと二人の方へ歩み寄ってきた。
頭は禿げ上がり、ずいぶんと年嵩のように見える。
「ほう、稀有なるお方が二人も。いや、三人か。何かが憑いているな」
明厳は霊的なものが視えるらしい。
何かが憑いている、というのはきっと朧のことだろう。
「明厳様はなにが憑いているのか視えるのですか」
「ああ、視える」
明厳は紬の傍らに立つ九耀の金色の尾に目を留めた。
「おや、腐敗の刻印が視えるな」
九耀は妖の証である尾を見られるのを嫌ったのか、さっと背中に隠した。
明厳は紬にずいっと近づくと、その顔をまじまじと見つめた。
「あなたは……」
明厳がゆっくりと口を開いた。
「どなたか大切な人を亡くしたようだ」
ずばりと言い当てられ、紬は思わず嗚咽した。
「幼い子を亡くしました」
「それはお辛かったでしょう」
「わたしが……、わたしが代わりに死ねばよかった」
紬が小声で呟くと、徘徊僧はふるふると首を横に振った。
「あなたには死相は出ていない。生きる者の目をしている」
「朧は死ぬ運命だったと?」
紬が食ってかかるように言うと、明厳は持っていた鈴を静かに鳴らした。
――チリン、チリン。
澄んだ音が霧の中に吸い込まれていく。
平原に散らばる無数の骨を見やり、明厳は曖昧な笑みを浮かべた。
「さあ、この地の骨を供養し、霧を鎮めましょう。それが亡き者への何よりの
「朧の骨は拾うことができませんでした」
「大丈夫、故人の心はあなたと共にある。祈りとは捧げるということ。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」
紬は言われるがまま両手を合わせ、霧で煙った天に祈りを捧げた。
明厳は鈴を幾度となく鳴らし、ようやく供養の鈴を鳴らし終えた。
辺りが静寂に包まれた頃、紬が神妙な面持ちで問いかけた。
「あの……、明厳様」
禿頭の明厳はゆっくりと顔を紬の方に向けた。
「この嘆きの霧はいつから、こんなにも濃く世界を覆い尽くしているのでしょうか」
長年抱き続けてきた誰も答えを持たない問いだった。
嘆きの霧が世界を覆うようになってから、人類の歴史は停滞し、原始時代へ退行した。
霧が発生する原因を知ることは、霧に苦しむ人類の願いであるだろう。
明厳は数珠に触れ、厳かな調子で答えた。
「いつから、と問われれば、もはや時という概念すら曖昧なほど遥か昔から。この霧は人の世に蔓延る嘆きと穢れが凝り固まってできたもの。人の心から生じた、いわば呪いのようなものです」
「……呪い」
徘徊僧の答えは一見するとそれっぽかったが、曖昧な部分も多かった。
十数年ばかりしか生きていない紬は、物心ついた頃から嘆きの霧が天と地を覆っているのが当たり前の光景であったが、六十年や七十年ほど生きている霧渡りの郷の老人たちの昔話によれば、霧が世界を覆うようになったのはここ何十年かのことだという。
長命な老人たちの言葉を借りるならば、霧の蔓延はわりと最近の話なのだ。
明厳の言うように、遥か昔から、という説とは食い違っている。
この世界にはかつて文明というものが存在したのだ、ということは聞いたことがある。
霧のない世界で人は移動し、他民族とも頻繁に交易したそうだが、嘆きの霧が世界を根本から変えてしまった。それが定説で、紬が知る唯一の世界観だ。
「明厳様、どうすればこの霧は晴れるのですか」
紬が質問すると、明厳しいは深遠な調子で答えた。
「どうすれば、この霧が晴れるか。それは人が自らの内に抱える嘆きと憎悪を手放し、赦しと慈悲の心を取り戻した時、この霧もまた自ずと晴れていくでしょう」
明厳は平原に散らばる骨に視線をくれた。
「この御骨平原に眠る魂もまた、生前の嘆きに囚われ、霧となってこの地を彷徨っている。だからこそ私はこうして供養を続けるのです。彼らが安らかに眠り、行き場のない魂が浄化されることで、少しでもこの霧が薄れることを願うばかりです」
紬の傍らで佇んでいた九耀が明厳を真っすぐに見据えた。
「そもそも、この霧は自然現象なのでしょうか」
九耀の声は、明厳の曖昧な言葉とは対照的に、明確な疑問を帯びていた。
明厳はわずかに首を傾げた。
「というと?」
九耀が滔々と霧に関する自説を語り始めた。。
「私にはこの霧がとても自然現象とは思えない。自然現象であるならば、霧が虚ろになる時期があってもいいはず。しかし、霧はずっと蔓延し続けている。なにか人為的に生み出されたものと思えるのです。たとえば、どこか遠い国の科学者が何かしらの巨大なエネルギーを生み出す実験に失敗したとか」
九耀の考えは先鋭的で、紬がすぐに理解するのは難しかった。
「嚙み砕いて言うと、どういうこと?」
「この霧は人為的な災害ではないか。私はそう考えている」
「九耀はどうしてそう考えるようになったの?」
「私はもともと野に生きる狐だった。人間の生み出す機械文明が空気を汚すことをよく知っている。自然の原野は急速に開発され、人の作りし煙を吐く鉄の巨人の傍で暮らさざるを得なくなった。煤煙に塗れた空気が野の獣の息の根を止めるのを幾度となく見てきた。この霧は不自然で、およそ自然現象によるものではない。ただ、そんな気がするだけだ」
漠然とした呪いとは異なる人為的な災害。
紬はそんな可能性を考えてみたこともなかった。
「いろいろな考えがあるものだね」
紬は霧渡りの郷という狭い世界でしか生きていない。
九耀が示した知見は新鮮だったが、ずいぶんと突飛なような気もした。
徘徊僧の明厳はしばし沈黙した。おもむろに手にした鈴を鳴らした。
チリン、チリン、と澄んだ音が霧の中に響く。
「なるほど。そのお考えもまた、一つの真実の形でありましょう。人が自らの力を過信し、森羅万象の摂理に逆らった時、そこに歪みが生じる。その歪みが積もり積もって、大いなる
明厳はゆっくりと顔を上げ、霧の覆う空を見上げた。
「古き伝承によれば、この世界には人が己の知識と力をもって、あらゆるものを支配しようとした時代があったと伝え聞いております。その中で、あるいは、あなたが仰るような実験と呼ばれるものが、この霧の起源となったのかもしれません」
明厳はいったん言葉を切り、視線を九耀に向けた。
「しかし、たとえその始まりが人為的なものであったとしても、今この霧が覆うものは紛うことなき人の心そのものです。科学の粋を凝らして生み出されたものが、やがて人の嘆きと穢れを吸い込み、精神的な呪いへと変貌していった。そう考えることもできましょう」
紅衣の徘徊僧が祈りを捧げるように頭を垂れた。
「いわば、この霧は人の心の写し鏡。始まりがどうであれ、それを晴らすには、やはり人の心が浄化される他はないでしょう」
明厳の説法めいた言葉は、九耀の呈した仮説を完全に否定するものではなかった。
むしろ、その可能性を受け入れた上で、さらに深い意味を付け加えたかのようだった。
科学的な原因と精神的な呪い。
その両方が、この嘆きの霧の正体である、と示唆しているようだった。
「……心の浄化ですか」
紬が沈痛の面持ちで呟いた。
無残な死を遂げた朧の心が浄化されることはあるのだろうか。
「そろそろ行こうか、紬」
九耀は余計なことは何も言わず、ただ静かに紬の手を握りしめた。
去り際、明厳が軽く会釈してくれた。
「お達者で、旅の人」
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