第10話 腐敗の刻印
産後の疲れが抜けきらないまま、紬は赤子を抱き上げた。
朧のふにゃふにゃした手足は温かく、柔らかな肌が頬に触れるたび、胸いっぱいに満たされる幸福感があった。しかし、その喜びと同時に重く圧しかかる現実も感じていた。
「紬、私が朧を見ているから休んでいろ」
九耀がそっと朧を受け取ろうとする。しかし、紬は首を横に振った。
「いいえ、九耀。私が……、私がやらなくちゃ」
力なく微笑む紬の顔は、月の光のように青白い。
産後、身体の自由が利かない上に、朧にすべての力を吸い取られたかのように、霧祓いの才が弱まっているのを感じていた。それでも、お努めを休むわけにはいかない。郷の民からの無言の圧力が、肌を刺すような霧と同じように全身にまとわりつく。
「子どもを産んだせいで、あの女は役立たずになった」
そんな陰口が聞こえてくる幻覚に、紬は毎夜うなされた。
自分に残された唯一の存在価値が、霧を祓うこと。
それなのに、朧を産んだことで、特別な力を失ったと後ろ指を指されるのは、耐えられなかった。
「わかった。無理はするな、紬。交代で霧を祓おう」
「うん。行ってくる」
九耀は止めても無駄だと悟っているのか、朧を抱きかかえ、紬を見送った。
納屋を出ると、鉛色の霧が紬を包み込んだ。以前は肌を刺すような冷たさだった嘆きの霧が、今はより重く、粘りつくように感じられた。
身体がだるく、足取りも覚束ない。
それでも紬は決意を胸に、一歩、また一歩と進んでいく。
「私が霧を祓わなければ、朧が……、朧が……」
そう呟きながら、震える手で霧に手をかざす。
すると、いつものように霧は紬の身体へと吸い込まれていく。
しかし、出産する以前のような明確な浄化の手応えはなかった。
皮膚を介して、身体に広がるのは、激痛ではなく、重く鈍い倦怠感だった。
どれだけ時間が経っただろうか。
吐き気が込み上げ、その場に膝をついた。胃液が込み上げ、喉が焼けるように熱い。
それでも紬は歯を食いしばり、再び立ち上がった。
「まだ……、まだ足りない……」
ほとんど意地で、霧渡りの郷の周囲の霧を祓い続けた。
朦朧とする意識のなか、紬は懸命に霧を吸い込み続けた。
身体はとっくに悲鳴をあげている。だが愛する朧を守るため、郷の民からの非難の目に耐えるため、紬はただひたすら霧を祓い続けるしかなかった。
狂気に染まった目で、紬は霧を身体に吸い込み続けた。鈍い倦怠感を通り越して、もう感覚がない。よろめきながら、左右にふらつきながら、郷を覆った霧が明らかに晴れるまで、霧を食らって、食らって、食らい尽くした。
へとへとになって納屋へ戻ると、心配そうに九耀が朧を抱いて待っていた。
「紬……」
九耀の声が、心なしか震えているように聞こえた。
母の紬がいつまでも帰って来ないからか、朧はひたすら泣きじゃくっていたらしい。
しかし、今は泣き疲れて眠ってしまっていた。
朧の穏やかな寝顔を見ることだけが至福の時間だった。
「ごめんね、九耀。ひとりで面倒を見るの、大変だったでしょう」
「無理をし過ぎだ、紬。しばらく休むといい」
「ううん、わたしは休めない。休んだら、すぐに霧が立ち込めちゃう」
わたしが霧を祓わなければ、朧に酷い未来が待っている――紬はそんな強迫観念に取り憑かれていた。どうしようもなく嫌な胸騒ぎがして、悪い予感がするせいで、紬はわずかに仮眠しただけで、霧を祓いに出掛けて行った。
九耀がどんなに止めても無駄だった。
霧を祓うのは九耀にさえも任せられない。
朧を九耀に預け、来る日も来る日も、際限なく湧いてくる嘆きの霧を食らった。
それでなくとも産後の身体は悲鳴をあげていた。
夜ごとの授乳と、休む間もない霧祓い。
どす黒く変色した皮膚と紫の血管は、もはや紬の日常だった。
いちど吸い込んだ霧の毒が抜けきる前に、また次の霧が身体に流れ込む。
休む間などなかった。しかし、その甲斐あってか、郷の周囲を覆っていた霧は、朧が生まれる前と同じように晴れ渡り始めた。
霧渡りの郷の民は歓喜した。
久しく目にしなかった青白い空に、彼らは一斉に顔を上げ、涙を流した。
「ああ、神よ。やはり朧様こそ、この郷に遣わされた御子だ」
「この晴れ渡った空は、朧様がお生まれになったおかげだ」
族長が朧を神のように崇め、興奮した民の騒めきをいっそう煽る。
彼らは朧を現人神の子と崇め、その誕生が嘆きの霧を退けたのだと信じて疑わなかった。
納屋の外からは連日連夜、朧を称える声が響き渡る。
子供を産んだせいで役立たずになった、という後ろ指を指されることはなかったが、紬の心は沈んでいた。晴れ渡った空を見るたび、胸を締め付けられるような痛みを感じる。
朧の小さな身体には、生まれた時に現れた腐敗の刻印が、日々、その範囲を広げていた。
どす黒い染みは肌を蝕み、一向に消える気配がない。
「この子には霧祓いの才は受け継がれていない……」
沸き立つ郷の民をよそに、紬は確信した。
夜ごと朧に手をかざし、霧の毒を抜いてやろうと試みたが、朧の皮膚から毒が抜けることはない。まるで自分の犠牲が、朧の苦しみを増幅させているかのように思えた。
「ごめんね、朧。ごめんね……」
すやすやと眠る朧の頬をそっと撫でる。
その小さな身体は、紬がどれだけ霧を祓っても癒えない。
郷の民の歓声が遠く聞こえるたび、紬は己の無力さと、朧の未来への絶望に打ちひしがれるのだった。
腐敗の刻印は、朧の白い肌に確実に広がっていた。
それでも朧は、無邪気な笑顔を紬に見せる。
紬の顔を見るたび、にこりと笑いかけるのが不憫で堪らなかった。
生まれながらに腐敗していく運命を授けた母を呪いもしない。
小さな手で紬の指を握り、無垢な瞳で世界を見つめる我が子を眺めるたび、紬の胸は張り裂けそうになった。愛する我が子が苦しむたびに、紬の心は鉛のように重くなる。
そんな折、郷には不穏な噂が流れ始めていた。
「朧様の血を啜れば、嘆きの霧に耐性がつくらしいぞ」
「神からの授かりものだ。奇跡の血に違いない」
迷信は瞬く間に広がり、飢えと恐怖に囚われた民の目には、朧は救世主ではなく、ただの器として映り始めていた。奇跡の血をたっぷりと蓄えた仮の器。
そして、奇跡の血を持つ朧の傍らにいる九耀は、民にとって邪魔な存在でしかなかった。
童の姿ではない九耀は、もはや郷の民が神と崇めた九耀様ではない。
彼らの目には、ただ紬を誑かし、朧の力を独占しようとする痴れ者に映っていた。
霧が少しだけ薄れた昼下がり、大勢の郷の民が納屋を取り囲んだ。
「その痴れ者を引き渡せ、紬様を誑かす不届き者め」
族長が血走った目で叫び、男たちが手に手に縄や棍棒、弓矢を携えている。
九耀は紬の前に立ちはだかり、鋭い視線を民たちに向けた。
「愚か者どもめ。死にたくなくば散れ」
しかし、飢えと狂気に駆られた民は、九耀の威圧的な声に怯むことはなかった。
九耀の妖艶な姿は、彼らにとってよりいっそう憎悪の対象となった。
大勢の男たちが九耀に襲いかかり、抵抗も虚しく縄で縛り上げられた。
「やめて、九耀は関係ないわ!」
紬が大声で叫び、九耀を庇おうとするが、産後の身体が思うように動かない。
その隙を突き、別の男たちが納屋の奥から朧を乱暴に引っ張り出した。
「……朧! 朧を返して!」
紬は必死に手を伸ばすが、力ずくで引き離される。
幼い朧は状況を理解できず、ただ戸惑ったように「あう……」と小さな声を漏らした。
納屋の外へ引きずり出された朧は、瞬く間に民に取り囲まれた。
彼らの目は、獲物を見つけた獣のようにギラついている。
「さあ、やれ!」
「さっさと血を啜らせろ」
恐ろしい熱狂が渦巻くなか、一人の男が鈍い刃物を朧の
「……あうぅう」
傷付けられた朧が泣きじゃくり、思わず紬は息を飲んだ。
朧の腕から、真っ赤な血が滲み出る。
奇跡の血を奪い合うように民たちが群がり、貪欲に血を啜り始めた。
「これで……、これで我らは救われる……」
奇跡の血を飲み下した群衆は、飢えた獣が初めて肉にありついたかのような、おぞましい歓喜に歪んでいる。
朧の腕から止めどなく血が流れ出す。小さな唇から、か細い嗚咽が漏れた。
腐敗の刻印はさらに色濃くなり、朧の白い肌を覆い尽くしていく。
何が起こっているのか理解できていない朧が紬を見つめ、助けを求めた。
「やめて……、お願い、やめて……」
紬の懇願は、狂乱した民には届かない。
九耀もまた、縛られたまま民を睨みつけているが、どうすることもできない。
美しき妖狐の翡翠の瞳から、一筋の悔恨の涙が零れ落ちた。
「すまない、朧。許してくれ」
朧の呼吸がだんだんと浅くなっていく。
金色の瞳は光を失い、小さな身体から温もりが失せていくのがわかった。
「……お、ぼ……、ろ……」
紬の震える声だけが血の匂いが充満する納屋の隅に響いた。
小さな吐息が漏れると、朧の身体はぴくりとも動かなくなった。
「……うあぁああぁあああぁあぁぁああああ」
紬が獣のように絶叫した。
その瞬間、晴れ間を見せていた嘆きの霧が一気に押し寄せてきた。
まるで朧の命が消えたことを悼むかのように、空は鉛色に塗り潰され、いっそう濃い闇が世界を包み込んだ。
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