第9話 朧

 九耀と契りを交わした夢のような一夜が明けると、重たい現実がしかかってきた。


 日に日に紬の腹が膨らんでいくが、身重の身体ではなかなか霧を祓うことができない。


 酷い吐き気と悪阻つわりのせいで、霧を祓うお努めが疎かになった。影のように九耀が傍らにいて支え続けてくれたけれど、霧を祓える夫婦が郷の外れの納屋でほとんど寝たきりでいるのを郷の民たちは快く思ってはないだろう。


 さっさと子を産んで、嘆きの霧を祓え。

 お前たち夫婦がろくに務めを果たさないせいで、まともに生活ができないじゃないか。


 郷の民たちからの無言の圧力をひしひしと感じて、紬は毎日のように嘔吐した。


 体調不良を堪えて、よろめきながら外出し、なんとかお努めに励むが、産まれ来る子にすべての力を吸い取られでもしているのか、ずいぶんと霧を祓う力が弱っているような気がした。


 紬が胎内に子を宿してから、霧渡りの郷を取り巻く嘆きの霧は晴れることがなかった。


「わたし、霧を祓えなくなっちゃったのかな」

「心配しなくていい。無事に子を産むことだけ考えればいい」

「……うん」


 九耀に励まされたが、心はどこか空虚だった。契りを交わしたあの日以降、九耀に触れられても、これっぽっちも熱を感じることはなかった。心ばかりの励ましの言葉が他人のように感じられ、夫婦の仲はいっそ冷え切っていた。


 九耀は尾を巻きつけてくることもなくなって、夜は寂しく離れて眠った。


 霧を祓えることが紬の唯一の存在価値であったのに、子を宿したことで、その才を失ってしまった。これが一時のことではなくて、永遠に続くことなのだとしたら、と思うと、夜もまともに眠れなくなった。


 新しく生まれてくる子には霧祓いの才が受け継がれているのだろうか。


 子に才が受け継がれているのなら、母から子へお努めの役割が引き継がれただけだ。

 子に才が受け継がれていないのなら、紬は霧祓いの才をただ失っただけとなる。


 いずれにしたところで、嘆きの霧の災厄に耐えうる子孫を生み増やすという族長の計画は根本から座礁しかかっているのは間違いないだろう。


 甘美な結合の後に押し寄せてきたのは、後悔と罪悪感ばかりだった。


 九耀と契りを交わしたのは間違いだったのだろうか。

 紬は美しい妖狐にたぶらかされただけだったのだろうか。


 自己嫌悪に陥り、安易に身体を許した過去の自分を叱責したくなる。


 紬が身重になり、まともに霧が払えなくなったせいで、郷の民たちは食料の確保が困難になり、霧渡りの郷から幾人かの餓死者が出た。


 紬たち夫婦に回ってきたなけなしの食料に九耀は一切口をつけず、「私はいい。妖は少々食べなくても飢えはしない。紬が食べなさい」と言って紬ばかりに食べさせた。


 本当に食べなくても平気なのか、やせ我慢なのかわからないが、九耀の厚意を無下には出来なかった。夫を差し置いて、紬ばかりが食事にありついているのが罪深いと感じた。


 霧祓いの子はいつになったら生まれるんだ。

 我々はいつまで苦しめばいいのだ。


 民たちの非難の視線を浴びながら、紬は陣痛に苦しんでいた。


 子がいよいよ産まれそうになると、納屋の中は普段とは違う張り詰めた空気が満ちた。族長と数名の年配の女性たちが紬の傍らで心配そうに見守っている。九耀はいつもの冷静さを失い、焦燥に駆られたように紬の手を強く握りしめていた。


「紬、私が傍にいる。大丈夫だ」


 九耀の声は必死に痛みに耐える紬の耳に届いていた。


「九耀……、痛い……」


 紬は獣のように呻き、のたうち回らんばかりの痛みをなんとかやり過ごした。陣痛の波が押し寄せるたび、紬の体は大きく震え、出産までの時間が永遠のように感じられた。


 いっそ死んでしまいたいような痛みに貫かれ、紬の体に最後の大きな波が押し寄せた。紬は全身の力を振り絞り、九耀の手を握りしめ、大声で叫んだ。


 喉の奥から振り絞った叫び声と同時に、小さな産声が納屋に響き渡った。


「……おぎゃあ、おぎゃあ」


 澄み切った赤子の泣き声に族長の顔が歓喜に歪み、年配の女性たちから安堵の溜め息が漏れる。


「産まれましたよ、紬様」


 年配の女性の一人が丁寧に布にくるんだ赤子を紬の腕に抱かせた。


「よくやった、紬。ゆっくり休んでくれ」


 九耀が労ってくれたが、なにもかもがぼんやりとして、朧な夢のように思えた。


 紬は、産まれたばかりの小さな命をまじまじと見つめた。


 赤子の肌は、生まれたばかりとは思えないほど透き通るように白い。


 髪は九耀と同じ、涼やかな銀色。ゆっくりと見開かれた瞳は、九耀の翡翠の瞳とは異なり、月のように淡い光を宿した金色をしていた。


 丸まった背中を見ると、お尻には飾りのような尻尾がちょこんと生えていた。


「……おぼろ


 紬の口から、自然とその名前がこぼれ落ちた。


 人間と妖狐の合いの子に相応しい名というよりも、紬自身の気持ちに近い。


 まだ我が子を生み落としたという実感が湧かない。輪郭の乏しい、ぼんやりとした夢の中にいるような気がして、どこか現実のことと思えなかった。


 九耀がそっと顔を近づけ、赤子の小さな手に触れた。


 赤子は九耀の指をぎゅっと握り返す。


「朧か。良い名だね、紬」


 九耀の目尻には、うっすらと涙が浮かんでいた。


 透き通るように白かった赤子の柔らかな皮膚のあちこちに、嘆きの霧の毒に侵されたかのような、どす黒い腐敗の跡が浮かび上がった。


「なんてこと……」


 九耀が悲鳴にも似た声をあげた。


「わたしのせいだ。満足な身体に生んであげられなかった」


 紬が心痛に苛まれるが、霧渡りの郷の民たちは歓喜した。


 朧の皮膚に現れた腐敗の刻印は、生まれながらに嘆きの霧の毒を吸っている証と解釈したようだ。


「なんと、まさに現人神の子。生まれながらにして嘆きの霧に耐えるお力をお持ちとは」


 老女は狂喜し、朧の出生の報を霧渡りの郷の民に伝えようと納屋を飛び出していった。


 興奮した民たちの声が納屋の外からこだました。


「ごめんね、朧。わたしのせいだ」


 民たちの歓喜をよそに、紬は生まれたばかりの朧の皮膚に手をかざした。


 なんとか霧の毒を抜いてやりたかったが、紬の霧祓いの力が衰えているのか、朧の皮膚は無垢な白さになることはなかった。

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