第7話 九尾の妖狐

 腰に巻き付く尾はふさふさと温かく、しなやかに紬の身体を包み込む。毒に侵される代償もなく霧を祓える喜びと、初めての他者との触れ合いに紬の胸は高鳴っていた。


「九耀、わたし、なんだかおかしいみたい」


 紬の足取りはどこかふわふわしており、夢の中を歩いているようだった。忌まわしい霧ですら、二人の距離を近付ける格好の刺激とさえ思えるのだから、どうかしている。


「なにがおかしいんだい、紬」


 九耀は表情ひとつ変えず、ただ優しい声で紬に問いかけた。


「だって、こんなにも温かい。誰かに触れてもらうことなんて、これまでなかったから」


 九耀はふわりと笑った。


「そうか。それは良かった」


 明後日の方向を見ながら、九耀が探るような調子で言った。


「私の正体は気にならないのかい、紬」

「ああ、うん。なんとなく察しはついている」


 人ならざる見目麗しい九耀の正体。

 わずか一夜で、童から青年へと変じる九尾の持ち主。

 おおよその想像はついている。


きゅうようなのかなって思うんだけど、違う?」


 霧渡りの郷の伝承によれば、この世界には太陽があり、霧のない晴れた世界があり、海の向こうには異国があり、言葉の違う異国の民が住んでいるとされる。


 また、現世に強い思いを抱く動物の霊をあやかしと呼ぶそうだ。

 九耀は正解だ、と言わんばかりにうなずいた。


「なんだ。気がついていたのか。紬は妖を見慣れているのか」

「ううん、見るのは初めて。九耀は狐っぽいところをいろいろ匂わせていたから」


 九耀は白地の衣の袖を鼻先に近付け、くんくんと匂いを嗅いだ。


「そんなに匂っているか」

「臭いって意味じゃないよ。むしろ、良い匂い。なんだかすごく甘い匂いがする」

「甘さがきつ過ぎはしないか」

「ううん、気にならないよ。霧の毒をいっぱい吸い込んで感覚が麻痺してるのか、わたし、あんまり鼻がきかないのかも」


 もしかして獣臭さが漂っていないか、心配しているのだろうか。

 匂いの件はあまり話題にして欲しくはないようだった。

 九耀が若干、言いづらそうに告白した。


「一本の尾にだけ、花喰はなくいという植物を巻きつけている。これは嘆きの霧の毒を吸って枯れながら、強烈な甘い香りを放つ特殊な蔦草で、枯れる直前に最も強い香を発する」


「そうなんだ。だから甘い香りがするんだ。わたし、好きだよ。この匂い」


 いつも身近にある匂いと言えば、嘆きの霧の湿った匂いだけだ。匂いらしい匂いを嗅ぐことがないから、九耀が漂わす甘やかな匂いはむしろ新鮮だった。


「九耀は妖狐として長く生きているの?」

「いいや、私はもともとただの狐だった」

「そうなの?」

「ああ、紬は覚えていないか」

「なにを?」


 九耀は昔を懐かしむように目を細めた。


「かつて私は瀕死の狐だった。人間の狩人に矢で射られ、嘆きの霧の毒に侵され、死にかけていたとき、紬が通りかかった」


 その昔に狐を助けたことがあったか、紬の記憶はおぼろげだった。


「そんなことあったかな。わたしが幾つぐらいのときだろう」

わらべの姿をしていた」

「九耀が最初、子供の姿をしていたぐらいの年齢と同じぐらい?」

「おそらくな」

「それじゃあ、五歳とか六歳ぐらいの頃かな」


 体感としては、十年ぐらい前の幼い日のことだ。

 瀕死の狐を助けたことなど、覚えていなくても無理はない。

 九耀は白地の衣をはだけると、弓矢の傷跡が残る脇腹を見せた。


「これが弓矢の跡だ。紬は矢を抜き、止血をしてくれた。その上、嘆きの霧の毒まで抜いてくれた」

「そんなことしたかなあ」


 とんと記憶にないが、九耀がそう言うのだから、たぶん真実なのだろう。


 九耀がただの狐であったとき、人間の狩人が放った矢に射られ、脇腹を負傷し、瀕死の状態にあった。


 狐の肉は臭みがあり、調理しても人獣感染を引き起こす厄介な細菌を媒介することもあるため、獲物を仕留めた狩人は死にかけの狐をそのまま見殺しにした。


 そこに霧祓いのお努めをしていた幼い日の紬が通りかかる。


 瀕死の九耀は嘆きの霧の毒に侵されていたが、紬は献身的に手をかざして霧の毒を抜いてやり、脇腹に刺さった矢を抜いて、手当までしてやった。


 紬はそのことをほとんど覚えていなかったが、九耀は紬に霧祓いの才を分け与えられ、妖狐として覚醒する。


 紬への恩義を忘れなかった九耀は人間の姿をして現れた。


 五歳かそこらの童の姿をして現れたのは、瀕死の九耀を助けてくれた当時の紬の年齢と同じぐらいの姿に化けたからであるらしい。


「私は紬に助けられただけでなく、霧祓いの才も分け与えられ、妖狐として覚醒した。紬に生かされた恩は終生忘れることはない」


 矢を射られ、嘆きの霧に毒され朽ちていく九耀を見殺しにした人間に恨みを抱く半面、救いの手を差し伸べてくれた紬に恩義と特別な感情を抱いていることはよくわかった。


「ごめんね、九耀。わたし、あんまり覚えていなくて」

「構わない。ずいぶん昔の話だ」


 霧を祓いながら歩くうち、苔むした小さな祠に辿り着いた。


 長い年月、忘れ去られていたかのようにひっそりと佇む祠の前に、九耀は紬の手を引いて座り込んだ。


「紬。ここで契りを結ぼう」

「……えっ?」


 九耀の目が妖しく光り、紬はとっさに身構えた。


「……ちょっ、……ま、待って。まだ心の準備が」


 紬があわあわと慌てふためく。

 九耀の背後で、金色の尾が大きく揺らめいた。


「この祠はえにしを結ぶ場所。契約を交わすための古き神域だ」


 稲穂のような尾の先が、まるで生き物のように祠へするすると伸びていく。

 祠の石畳に、金色の光で文字が刻まれていく。

 それはいにしえの言葉で紡がれた誓いだった。


「我は九耀。そなた、夜守紬を妻とし、終生慈しみ、守り抜くことを誓う。君の命を蝕む毒をこれから先も私が食らおう。君の痛みを私が背負おう。夜守紬、貴女に救われた命をただ返すだけでは足りない。この命ある限り、貴女を守り、共に在り続けたい――それが私の契りの誓いだ」


 霧渡りの郷の族長に強要された形だけの婚姻とは違う、九耀自身の言葉だった。

 九耀はそっと掌を差し出した。

 手の内に、淡く金色の炎が揺れていた。

 ただ手を取ればいいのだろうか、紬が躊躇した。


「どうすればいいの」

「今この場で、私の名を呼べ。君が呼んだその瞬間、私たちは契(ちぎ)られたものとなる」


 紬は、金色の炎に照らされた九耀の顔を見つめた。

 まるで神話の中から抜け出たような存在。

 人ではなく、けれど確かに今、自分のために立つ者。


「――耀よう


 名を呼んだ瞬間、炎が爆ぜた。

 嘆きの霧が祠の中に渦を巻き、二人の身体を包み込んだ。


「契約は成った」


 九耀の声が低く響く。

 その瞳の奥に、ほんの一瞬、幼い少年の面影が揺れた気がした

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