第6話 お努めの時間

「さてと、お努めの時間だな」

「……お努め?」


 九耀が意味深な笑みを浮かべた。ゆっくりと迫ってくるが、紬は身持ちを固くする。


 わずか一夜での急激な成長に理解が追いつかない。


「……まだ無理」


 紬がやんわりと接触を拒むと、九耀は何事もなかったかのように立ち上がった。


「まだ眠っているか。ならば私だけ霧を祓ってこよう」


 九耀は外出用の白地の衣を身にまとった。布の端には金糸で唐草紋様の刺繍が施されている。長衣の裾は床に触れるほど長く、風もないのにふわりと揺らめいた。首元には高貴さを感じさせる淡い紫の襟飾りを身につけている。


「あ、待って。わたしも行く」


 九耀と契りを結び、子を為せと族長に強要されたせいで、紬は本来のお努めを忘れていた。


 霧を祓うというお役目を忘れるなんて、自分はどこまで浮足立っていたのだろうか。


 いや、それとも青年の姿の九耀があまりにも美しすぎて、浮かれて舞い上がっていたのか。


 とにかく落ち着こう。


 紬はいちど深呼吸をした。


 九耀が見つめる前で着替えるのが、どうにも気恥ずかしい。


 重ね着した墨染めの麻布の羽織に、薄鼠色の襦袢と細帯を合わせた。

 服は何度も繕われ、端々に継ぎ跡が残っている。


 足元は簡素な革の足袋と縄草履。

 手首と裾に布を巻き、霧の毒の侵入を最小限に抑えている。


 霧を吸い込む際は簡易な面布を口元にかけるが、効果は薄いため、体調がよほど思わしくない日を除けば、それすらしないことも多い。


 今朝はいつになく体調が良かったが、口元を面布で隠すことにした。

 口元を露わにしたままだと、夢みたいな現実に思わずにやけてしまうから。


 紬はそそくさと納屋を出ると、九耀とは反対方向に歩き出した。

 霧が立ち込め、視界不良のなか、紬は手をかざして霧を吸い込んでいく。


「紬、なぜ私から離れる?」

「二手に分かれた方が効率的でしょう」

「片時も私から離れるな、紬」


 その言葉だけを聞くと、ずいぶんと支配欲が強いように思えてならない。


 九尾がするすると伸び、紬の華奢な腰に巻き付いた。


 拘束というほどの強制力はないが、ごくごく自然に尾に巻き取られ、九耀と密着する格好となった。尾が巻き付いたままで歩かされ、まるで連行されているみたいだ。


 霧にけぶったけもの道を、紬と九耀は並んで歩いた。

 腰に尾が巻き付いた上に手を握られた。


 族長の勧めで契約結婚した夫婦が仲良く手を繋ぎながら、嘆きの霧を祓っている。

 郷の民には、そう見えるだろう。


 いいや、視界不良の霧のなかでは、遠目からぼんやり輪郭シルエットが見えるだけだ。


 郷の民は童の姿の九耀しか知らない。


 紬が見知らぬ青年と仲良さげにしていると勘繰られる可能性がある。


 そうとなれば、紬がどんなに否定しても、紬の浮気相手の捜索が始まり、冤罪であるのに霧渡りの郷から追放されてしまう恐れがある。いくらなんでもそれはあんまりだ。


「九耀、あの、もう少し離れて歩かない?」


 隣を歩く美貌の横顔を直視できず、紬が視線を下げながら言った。


 ふと霧の湿気でぬかるんだ泥道を見つめると、九耀が歩いた道だけ一直線に足跡が並んでいた。


 ずいぶんと、特徴的な歩き方をしているようだ。


 前足の着地跡に後ろ足を重ねるように歩くため、前足の足跡が後ろ足の足跡で隠れてしまう。左右にふらふら揺れている紬の足跡と違って、九耀の足跡は左右に分かれることなく一直線に続いていた。


「私と密着するのは嫌か」


 九耀の歩みが止まり、心なしか尾の拘束が緩やかになった。


「いや……じゃない、けど」

「けど?」


 周囲に満ちた霧のせいで、九耀が今、どんな表情をしているのかが窺えない。

 ひたすら赤面している紬と違って、九耀の声音はどこまでも冷静だった。


「お努めの最中に、あんまりいちゃつくのもどうかなって」


 紬がもごもご言い淀むと、九耀の大きな手が紬の華奢な腰に添えられた。


 九耀は、くくく、と笑いを噛み殺している。


「何も見えはせぬよ。我らが霧を祓わねばな」

「そうだけど……」


 余裕がないのは紬だけで、余裕綽々しゃくしゃくの九耀にひたすら翻弄されている。


「紬と手を繋ぎながら霧を祓う。私はなかなか愉快なのだがな」


 九耀はなかなか上機嫌であった。声が弾んでいるのがわかる。


「……わたしも、……楽しい」


 紬がぽつりと言った。


 いつだって、悲壮感たっぷりに霧を祓っていた。

 祓っても祓っても、際限なく霧が湧いてきて、後に残るのは徒労感ばかりだった。


 霧を祓うたびに病み苦しむが、しかし、紬以外には霧は払えないのだ。

 紬を突き動かしているのは使命感と責任感、ただそれだけだった。


 身体が限界になるまで霧を吸い込み、郷の人たちに惜しまれながら最期を迎える。


 それまではひたすら霧を祓う。


 わたしに与えられたのは、そういう人生なのだと割り切っていたのに。


「いいのかな。楽しみながら霧を祓うなんて」


 九耀と並んで霧を吸い込んでいると、不思議と身体に毒が回るような感覚がない。


 どこまでも遠くまで歩いていき、いくらでも霧を吸い込めそうな気がした。

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