第3話 契り
霧渡りの郷の族長が無遠慮に納屋の戸を開け放った。
「水の浄化は終わったか」
「はい。可能な限り」
「おい、水瓶を運び出せ」
族長は若い衆に声をかけ、紬が浄化した水瓶を戸外へ運び出させた。
嘆きの霧の中でも強く育つ
生食は危険だが、煮込みさえすれば毒性を弱めて食べられるため、郷では貴重な食材となっている。
郷の定番のスープの中で、赤い
夏でも雪が降る異常気象のなか、凍りついたまま実る果実で、生のままだと苦み、渋み、臭みがあってとても食べられたものではないが、乾燥させ、実内の水分を抜くことで甘みが凝縮し、ほのかに甘酸っぱく、食べやすい味わいになる。
水も貴重だが、食料もまた貴重だ。いつもは霧茸のスープだけだが、今日は凍実まで添えてあった。霧を祓うたび、紬が飢え死にしない程度の食事は用意される。
「ご苦労。しっかり食べなさい」
「ありがとうございます」
霧の毒が移るのを恐れてか、族長は紬のことをろくに見もしなかった。
納屋の片隅で息を殺している九耀に気付きもしない。
しかし、新たな水瓶を納屋へ運び込んだ郷の若い衆が九耀を見咎めた。
郷の民は皆、ごわごわとした黒髪だが、九耀は霧の色にも似た涼やかな銀髪だ。童とは思えぬ色気をたたえた切れ長の目、どことなく嘲笑を含んだ口元、それでなくとも目立つ容貌をしている。
「見ない顔だな。いつ郷に紛れ込んだ?」
郷の若い衆が尋問するように詰め寄るが、九耀は片膝を立てて座り、超然としている。
うるさい
若い衆がひそひそと囁き合っているが、九耀の目には映っていないかのようだった。
「九耀も食べる? お腹はすいてない?」
紬が霧茸のスープを差し出したが、九耀はそれを固辞した。
「不要だ。紬、君が食べろ」
「うん」
有無を言わせぬ、偉そうな物言いだったが、不思議と嫌な気はしなかった。
紬は音を立てないよう気をつけて霧茸のスープをすすった。
素朴だが、滋味のある味わいが毒に侵された身体を修復してくれるようだ。
「族長、侵入者です」
郷の若い衆は、いつの間にか納屋に忍び込んでいた九耀の存在を告げ口した。
共同生活を送る霧渡りの郷では、年端のいかぬ少年はおよそ足手まといの存在だ。
重い水瓶を運ぶこともできず、料理番も火の番も任せるには幼く、ただ貴重な食事と水を食らうだけの厄介者でしかない。
自分たちの食事の分け前が減ることを危惧してか、若い衆は明らかに九耀を郷から追い出そうとしていた。族長の厳めしい声が響く。
「そこの
霧祓いの才を持つ紬は神格化された存在とされるが、それは建前だ。
神とは名ばかりで、霧を祓う代わりに食事を供される奴隷に過ぎない。
「現人神か。それにしては雑な扱いだな」
九耀が底冷えのする声を発した。
郷の衆の誰もが得体の知れない底知れなさを感じたのか、ごくりと唾を飲み込んだ。
「童、名はなんと申す? 流れ者か、どこから来た」
族長が居丈高に問うが、九耀はすっかり無視している。物憂げな表情を浮かべ、指をくるくると回し、戸外から漂ってくる霧をぱちんと弾いた。
「聞いておるのか、童」
明らかに族長が焦れているが、九耀は「黙れ」とでも言うように口元に人差し指を当てた。
九耀はおもむろに立ち上がると、戸外に満ちていた霧に向かって手をかざした。
みるみる霧が薄れていき、まるで九耀の手の内に吸収されていくようだった。
「おおっ、まさか……」
族長たちが色めきだっだ。
紬でなくとも、はっきりと感じられたことだろう。
周囲に満ちていた肌を刺すような霧の毒気が明らかに薄れたのを。
九耀は紬と同じように霧を吸い込んだ。しかも、その顔には苦痛の影一つない。
「九耀、あなた……」
この子は、わたしと同じ体質だ。
いや、ひょっとすると、わたしなどより、よほど高次元の存在であるかもしれない。
九耀は辺りの霧を食い尽くしても、けろりとしている。
紬は息を飲んだ。
自分以外にも、こんな体質の者がいたなんて。
同類を見つけた親近感よりも、九耀がどう扱われるかを思うと、ただ悲しかった。
その体質は隠しておくべきだったが、もう遅い。
九耀が嘆きの霧を食い尽くす様子を郷の民は見逃さなかった。
「この餓鬼、嘆きの霧を吸い込んでいるぞ」
「しかも苦しんでいない。紬とは違う」
霧を吸い込むたび弱り切って、いちいち寝込む紬より、なんの苦痛も見せない九耀の方がよほど利用しがいのある存在であることは誰の目にも明らかだった。
「もしや、あの子こそ、真の霧祓いなのでは……」
霧渡りの郷の民は毒が感染する恐怖も忘れ、納屋の入り口へ殺到した。
「そこの童、名は何と申す!」
霧渡りの郷の族長が顔を紅潮させて叫んだ。
「貴様も、この霧を祓う力を持つのか」
相手が幼い子供であるからか、族長はあくまでも高圧的だった。
「図が高いな」
九耀がゆらりと揺らめいた。偉ぶる族長をしかと見据え、あどけない顔に不釣り合いなほどの威厳に満ちた声で告げた。
「我は
静かな宣言に、郷の民は歓喜した。
これまで紬一人が負っていた霧の浄化が二倍にも三倍にも増えうるのだ。
霧が晴れる時間帯が増えれば、郷の民の活動領域はそれだけ広がる。
食料や水の確保も容易になるだろう。
「九耀様、あなたこそ霧渡りの郷に遣わされた救世主です」
族長はさっきまでの小童扱いをさらりと撤回し、九耀を神のごとくに奉った。
「喜べ、皆の者! 九耀様もまた神ぞ!」
族長が焚き付けると、霧渡りの郷の民たちが一斉に歓喜した。
「九耀様!」
「九耀様っ!」
狂乱じみた興奮がとどまらぬなか、族長が血走った目で紬と九耀を交互に見た。
そして、一つの恐ろしい結論に達したかのように声を張り上げた。
「聞け、霧渡りの郷の民たちよ。この九耀様こそ霧に耐えうる真の存在。そして紬もまた霧を祓う才を持つ」
族長は九耀に向かって、
「これは天の配剤だ。この特別な二人が契りを結び、子を為せば、必ずや嘆きの霧の災厄に耐えうる子孫が生まれるであろう。我らの、郷の、人類の、未来が繋がるのだ」
霧渡りの郷の民は族長の言葉に、狂ったように沸き立った。
「素晴らしい!」
「九耀様、万歳っ!」
族長の託宣は、あまりにも利己的だった。
霧を浄化できる特殊な体質の子が増えれば増えるほど、人類の安全領域は増えるだろう。
それはそうだろうが、狂乱状態の郷の民の目には、紬の苦しみや、九耀がまだ幼い少年であることなど映っていない。
ただ、生存への切なる願いが彼らを突き動かしていた。
「さあ、
族長が紬と九耀を無理やりに引き合わせ、前世で生き別れた一心同体であるかのように結合させようとする。
霧渡りの郷の民の興奮と狂気に満ちた声が、納屋いっぱいに響き渡る。
「契りか。面白いな、人間という奴は」
狂騒のなかで九耀は小さく、しかし、はっきりと薄ら笑いを浮かべた。
嘲笑を含んだその笑みは、短慮で滑稽な人間どもが演じる下等な見世物でも見るかのようにせせら笑っているようだった。
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