第2話 九耀
吐き出す息すら凍りつく納屋の中で、
全身を蝕む毒の痛みに、意識は水底を漂うようだ。微かに開いた瞼の隙間から、外の凍てつく空が窺えた。嘆きの霧は相変わらず分厚く垂れ込め、数日前の紬のお努めなどまったく無意味であったかのようだった。
息をすることさえ、しんどい。
納屋の脇には、当たり前のように大きな
郷の若い衆が近場の水源から汲んできた水だろう。
嘆きの霧によって水さえも汚染されるから、せっかく汲んできた水もそのままは口にはできない。いったん、紬が浄化しなければならない。
紬はよろよろと立ち上がると、水瓶にそっと手を触れた。
幾日か前に吸い込んだ霧の毒に、新たな毒が重ねられる。
治りかけていた身体が蝕まれ、紬は思わず悲鳴をあげた。
「……うあっ」
霧に汚染され、白濁していた水が徐々に透き通っていく。
紬が背負う痛みと引き換えに、およそ安全な水が確保できた。
しかし、この程度の量では足りない。郷の民、皆を生かす量はなかった。
毒見を兼ねて、紬は手酌で水をすくい、口に含んだ。
「大丈夫……かな」
良くも悪くも、重ねての毒を食らい過ぎた。紬にとっては大した毒でなくても、郷の民にとってどうかはわからない。なるべく安全な水にしたいが、完全な真水にまで変えられたかはいつも確証がない。
紬がいつまでも水瓶に手を添えていると、いつぞやの少年が音もなく姿を現した。
「紬」
素っ気ない呼びかけに、思わず心臓が飛び跳ねそうになった。
その声には
薄暗い闇の中で、ふいに柔らかな銀髪が揺れる。まだ年端もいかぬ、ほんの五歳かそこらの少年とは思えぬ妖艶な視線に射すくめられ、紬はどぎまぎと言い募った。
「どうして、また来たの。ここへ来たら、お前まで毒に侵されるかもしれないのに」
思わず、年上ぶった口調になってしまったが、紬もまた自分の正確な年齢を知らなかった。物心ついた頃から郷で暮らしているが、そもそもこの霧渡りの郷に何人の人間が暮らしているのかも知らない。
霧が晴れないせいで、人々の顔をまともに視認できない上、郷の民が一堂に会すことは滅多にない。正直なところ、郷の民の名前もよく知らない。名を呼ぶ機会がないからだ。
霧渡りの郷に住まうのは、夜守の一族。
血の繋がりがあるのか、ただこの地に流れ着いた人々が共同で暮らしているだけなのか、それすらもよく知らない。
霧に覆われた世界では日にちの経過が曖昧だから、年齢だってあやふやだ。
紬は今、いくつなのだろう。
十五歳か、十六歳か。
せいぜいそれぐらいだろう。
はっきりしているのは、少なくとも目の前の少年よりはだいぶ年上だろう、ということだ。しかし、少年は悠久の時を生きた仙人のように静かに佇んでいる。紬の言葉には何も答えず、ひどく穏やかな、どこか人ならざる笑みを浮かべていた。
「ねえ、君。名前はなんて言うの」
紬ばかりが喋っていて、どうにも調子が狂う。ずっと傍らにあるのに、いざ触れようとすると煙のように掻き消えてしまう嘆きの霧を相手にしているかのようだ。
「……名前?」
人ならざる少年が、まるで初めて耳にしたみたいな反応をした。
「そう、名前。あなたの名前を教えて」
霧渡りの郷の民の名前もろくに知らないのに、見ず知らずの少年の名を訊ねているのが紬自身にも不思議だった。少年はむっつりと押し黙っているが、言外に「必要か? そんなもの」と言っている気がした。
「だって、不便でしょう。どう呼んでいいのかわからない」
名を問うたのが不始末であったのか、少年の存在が薄らいでいく。
少年を形作っていた輪郭が空虚になり、紬の目の前から消えようとしている。
「……あの、待って。嬉しかったの。わたしに会いに来てくれる人は誰もいないから」
紬が必死に呼び止めると、少年の輪郭が少しずつはっきりとしてきた。
嘆きの霧を大量に吸い込んで臥せっている紬には、郷の民は誰も会いにきたりはしない。
万が一、霧の毒が感染したら取り返しがつかないからだ。それなのに少年は平気な顔で、紬に会いに来た。年端のいかぬ幼さゆえに、ただ向こう見ずなだけかもしれないが、紬の日々のお努めが決して無意味ではないと教えてくれた気がした。
霧の毒を浄化するだけの代わり映えのしない毎日のなかで、内心では人との触れ合いを切実に求めていたのだろう。
紬を恐れず、顔を見に来てくれた。
それだけで特別だった。
紬の問いかけも虚しく、しばらく会話が途絶えた。
「ごめんなさい。言いたくなかったらいいの」
何気なしに、ずいぶんと残酷なことを聞いてしまった気がした。
ひょっとすると、この少年は孤児なのかもしれない。親の顔を知らず、気がつけば霧渡りの郷で暮らしていた紬と同じような境遇。そうだとしたら、自分の名前さえ知らなくたって無理もない。
紬自身、いつから紬と呼ばれているのか、もうよく覚えていない。
郷の民からそう呼ばれるうち、いつしかそれが自分の名前になった。
たぶん、本当の名前は別にあるのだろうが、もはやそれを知る術はない。だが、名前などなんでもいいではないか。所詮、生きているうちの仮名に過ぎないのだから。
どこからともなく、ずいぶんと老成した声がした。
「ふむ、名前がないと不便……。そうか、そういうものか」
少年の背に見え隠れしていた金色の尾が九つに分かたれた。
九尾。
「
まったくの無表情で、銀髪の少年がぽつりと言った。
「そうとでも呼んでくれればいい」
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