九耀伝 夜守紬の霧死譚
神原月人
第1話 夜守紬
世界を腐らせ、大地を侵す毒性の霧が人類に破滅的な被害をもたらした。
天を覆い尽くすように霧が垂れ込め、まるで月のように、太陽の光から輝きが失われた。昼夜を問わず暗闇となり、夏に雪が降り、凍るような寒さのせいで作物は枯れ、家畜を生かす飼料すら腐り、大量の餓死者が出た。
人類は霧が晴れてくれるよう祈り、ただ嘆くばかり。
誰が名付けたか、世界を覆った毒性の霧は「嘆きの霧」と呼ばれるようになった。
空気、水、食料は嘆きの霧に汚染され、ただちに腐り、人類はひたすらに命を繋ぐことに汲々とし、世界ははっきりと原始時代に退行した。
紬が周囲の霧をあらかた吸い込むおかげで、数日ばかりは霧が晴れ、郷の民はなんとか生きていくことができた。
しかし、嘆きの霧を吸い込む代償で紬は何日も寝込んだ。皮膚はどす黒く変色し、血管は紫色に変じ、どうしようもない痛みが襲ってきて、思わず発狂しそうになる。病に臥せっているうち、紬はろくに食事も与えられず、郷の外れの納屋に隔離された。
霧祓いの才のためか、嘆きの霧に侵された身体はいずれ回復することはわかっている。
それでも毎度毎度の痛みが軽くなることはない。
いつもいつも苦しくて、苦しくて、いっそ死んでしまいたくなる。
嘆きの霧は、泣き声を噛み殺すように静かで、ゆるやかに命を腐らせていく。
それはまるで、愛されたことのない神が世界にかけた呪いのようだった。
「わたしはいつまで嘆きの霧を吸い込めばいいのだろう」
誰に言うでもなく、紬がぽつりと呟いた。
どんなに嘆きの霧を吸い込んだって、紬が無毒化できる霧の量など、たかが知れている。
霧を祓っても祓っても、紬の努力を嘲笑うかのように嘆きの霧は湧いてくる。
無駄だと知りながら、それでも霧を祓わなければならないのだろうか。
紬が霧を祓うのを止めてしまえば、早晩、郷の民が死に絶えるのは目に見えている。
しかし、それは寿命が来るのが早いか、遅いかだけの違いではないのか。
際限なく嘆きの霧を吸い込んでいれば、紬の身体にいずれ限界が来るだろう。
いつもいつも紬が死ぬ思いをして霧を無毒化しているというのに、霧渡りの郷の民は誰一人として看病になど来やしない。迂闊に紬に近寄れば、嘆きの霧の毒が移る可能性があるからだ。
だから、紬は独りぼっちで苦しみ、快復すればまた嘆きの霧の毒を食らう。
ただただ、その繰り返しの日々だ。
紬には苦しみを吐露する相手もいなければ、「よく霧を吸い込んでくれたね」と褒めてくれる相手もいない。毒が移るのを怖がって、郷の民は指一本さえ触れられもしない。
霧を無毒化できる特殊な体質に生まれたがゆえの孤独。
霧を祓ったところで、どうせすぐに霧が湧いてくる。
郷の民はきっとこう思っているだろう。
「おい、紬。いちいち寝込んでないで、さっさと霧を祓え。また霧が湧いてきたぞ」
もしも紬が特殊な体質でなく生まれたなら、おそらく平気でそう言うだろう。
そうだ、嘆きの霧に終わりはない。祓っても祓っても、延々と霧は湧いてくる。
ちょっとばかり霧を祓ったからって、
それが紬のお役目なのだから、当然のことをしているだけだ。
なるべく寝込んでいる時間を短くして、できる限りの霧を吸い込んで、霧渡りの郷の民を守る――それが仕事だ。
嘆きの霧の毒が全身を巡ると、あまりの苦しさに、いっそ死んでしまいたい気持ちになるけれど、ほんとうに紬が死んだら、郷の民が皆死んでしまう。
「それはつまり、わたしが皆を殺したということ?」
毒が全身を駆け巡り、歯の根がうまく合わず、かちかちと鳴った。
ただひたすら痛みに耐えていると、紬の目の前に見慣れぬ少年の顔があった。
まだ、ほんの四歳か、五歳か、そこらだろう。
柔らかな銀髪とあどけない表情が、どこかこの世のものと思えぬ神々しさがあった。
「わたしに近付かない方がいいよ。毒が移っちゃうから」
紬がやんわり忠告するが、少年は構わず手を伸ばした。
あまりにも優しい手つきで、紬の頭を撫でた。
「毒などであるものか。そなたほど
少年らしからぬ、威厳ある声音。
神のお告げのような言葉に、紬は思わず泣きそうになった。
「わたしは夜守紬。君は?」
紬が問うと、少年の姿が幻を見ていたかのように歪んだ。
霧のように掻き消えたあどけない少年には金色の尾が生えていた。
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