5.マレンツィオ

 それをシャルロットから打ち明けられたとき、マレンツィオは困惑と怒りとを覚えていた。


「私には、どうすることもできない」

 シャルロットは俯いていた。その肩を抱きながら、マレンツィオも同じことを考えていた。

「俺は、とにかくダンクルベールを信じよう。そして、お前のことも」

「あなた」

「お前も少し、休みなさい。リリィ君たちと遊んで、気を紛らわすことだ」

「そうですね。そうすることにしますわ」

 つらそうに、それでもシャルロットは微笑んでくれた。


 こういうとき、きっと子どもがいれば、心は晴れやかになるのだろう。

 それができない不甲斐なさを、マレンツィオは悔悟するしかなかった。


 第一容疑者、ボドリエール夫人。

 ダンクルベールの見立てと、シャルロットが聞いたことが正しいとしても、やはりどうすることもできない。

 真相を暴くためには、ひとつずつものごとを解決するしかなかった。


 聞き込み要員として、ビゴーを招聘しょうへいするよう具申した。セルヴァンは、ビゴーひとりでは名家への聞き込みは難しいだろうと渋っていたが、メタモーフ事件の際、人脈を構築していたことを伝えると、うまく通った。

 コンスタンも来るようだった。ビゴーと共にこちらに向かうとのことである。


 四人目を見つけたのは、支部次長のラブラシュリだった。ガンズビュール支部の正門に貼り付けてあったらしい。

 今回の犠牲者は、言語学者。三日ほど前から行方がわからなくなっていた。

 やはり、共通点はない。上流階級のうち、無差別に狙っているか。


 人心の慰撫は困難を極めている。

 滞在中の別荘持ちにはなるべく撤収するようには呼びかけているが、せっかくの別荘シーズンをふいにしたくないという声が大きいそうだ。

 生命いのちと享楽を天秤にかけたうえでの発言かと、怒鳴りつけたくなった。


「証拠、証言なしですか」

 ホテル・セネヴィルに呼び寄せたパトリシアが、難しそうな顔でこぼしていた。捜査に有益な分析ができるとのことで、セルヴァンが特任とくにん士官として登用したいとのことだった。


「死体の晒し方も異様だ。支部庁舎には、ここに機能を移設した今でも、当直として複数人がいるというのに、それが誰も発見できず、ものを取りに行ったラブラシュリがはじめて見つけたというのだから」

「リュシアン。いえ、ダンクルベールさまは」

「リュシアンで構わんよ、夫人」

 マレンツィオの言葉に、パトリシアは少し恥ずかしそうにはにかんだ。


「あれは単純に、人が増えたと考えている。本命ではないと。とすれば、本命にたどり着くまでに、あと何人かが死ぬ羽目になる」

「三ヶ月で四人。早すぎる。死体の損壊や晒し方からいっても、複数犯と見たほうがいいかもしれませんわね」

「ビゴー先輩を呼んでいる。聞き込みで、いくらか進展があるかもしれない」

「まあ、あにさまが?」

「おや、兄と呼んでいるのだね。シャルロットが姉で、ビゴー先輩が兄とは、羨ましいきょうだいを持っていらっしゃる」

 言った冗談に、ふたりで笑った。


「姉さまには、本当に甘えてばかりいてしまっています」

「むしろ、そうしておくれ。あれは貴女の話をするたび、本当に嬉しそうだから。今ここに、連れてきたいぐらいだね」


 ダンクルベールをリュシアンと呼ぶように頼んだのは、シャルロットだった。


 本人は気にしていないとばかり言っているが、やはりダンクルベールは、あの時からずっと憔悴していた。まだ体に表れていないだけで、ぼろぼろだった。そして孤高であるがゆえに、誰もそれを癒せないでいた。

 シャルロットは嘘をついてまで、パトリシアにダンクルベールを癒やすよう、頼み込んだのだ。コンスタンから許しが出たという、嘘までついて。

 信頼と親愛、両方があった。だからシャルロットは、そうしたのだろう。


 訪いがあったのは、次の日だった。

 青鷺あおさぎ出版社長、かもめ髭の名探偵こと、ポワソンである。

 追い返すようにだけ言ったところ、応対したウトマンに殴りかかったそうだ。


「すみません。本官もとっさに殴り返してしまって」

 ホテル・セネヴィルの入口で大の字になっているポワソンを前に、ウトマンがぺこぺこと頭を下げてきた。

 見やると、顎にいいのが入ったようで、綺麗にのびていた。

「警察官としては失格だが、男としては及第点以上だ。一撃必殺とは、のっぽもやるじゃないか」

 マレンツィオは笑って、ウトマンの肩を叩いた。


 隣で真っ青になっているヴィルピン含めて話を聞いたところ、ウトマンは貧民窟出身で、かなり喧嘩慣れしているとのことだった。それも怒ると止まらない性分らしく、ヴィルピンはいつもひやひやしているらしい。

 警察隊将校に対する暴行と公務執行妨害の現行犯で、確保の際に抵抗したため応戦したということにした。セルヴァンもそれで納得してくれた。

 ウトマンに対しては、マレンツィオから指導一回、それ以上はお咎めなしで済ませた。


「犯人がわかったのだよ」

 事情聴取の中で、ポワソンがそう、息を巻いた。


 ひとまず話を聞くか、となった。


 会議室。セルヴァン以下、緊急捜査本部の面々とダンクルベール。そしてパトリシア。

 念の為、シャルロットをパトリシアの隣に置いた。


「小生は、この連続殺人の犯人を、ガンズビュールの人喰ひとぐらいと呼んでいる」

 煙管パイプをくゆらせながら、ポワソンが闊歩する。

 言いえて妙、といったところだろう。四肢を引きちぎり、はらわたを引きずり出す、けもののようなやつ。

 こういったセンスはさすが本業作家である。


「犯人は、あなただ。ボドリエール夫人」

 自信満々に。

 言われた側は、何も気にしていない様子だった。


「“湖面の月”にその鍵がある。貴女は著作に、ちょっとした“悪戯いたずら”を仕込むがある。“湖面の月”の“悪戯いたずら”が二種類あることを、小生は確認済みだ。を引いたほうが殺されている」

「その証拠は?」

「これまで殺された三名の書架からは、“湖面の月”が見つかっていない。これが証拠だ」

「それをどうして貴殿が知っている?」

 セルヴァンの言葉に、ポワソンが目を逸らした。


「不法侵入、ないし窃盗の疑い。確保」

「待て、最後まで言わせたまえ」

「おう、いいだろう。その当てずっぽうが外れ次第、すぐさま送検だからな?覚悟して続けろよ」

 ポワソンの胸ぐらを掴み上げながら、マレンツィオは吠えてみせた。目を潤ませながら頷きまくっていた。


 毎度毎度、こうやって怯えるくせに、よくも凝りもせずに挑んでくるものである。


「ここに、二枚の招待状がある。未開封でね。両方とも招待状なら、小生の勝ちだ」

 ポワソンは、さっきまで怯え散らかしていたのが嘘のように、したり顔で封書を二通、取り出してみせた。


「お前が“悪戯いたずら”に挑戦したことから、容疑者と見られていることを察し、通常通り、片方だけが招待状ということもありうるだろう?」

「そこは勿論、折り込み済みだ。小生のファンに協力してもらい、名義を頂戴している」

 回答に対し、マレンツィオは、へえ、といったふうにした。こういう小狡こずるいところは頭が回るのもこの男の特徴である。


「“湖面の月”には、二通りの“悪戯いたずら”があった。これのどちらかが。つまりは死への招待状というわけだ」

「左様ですか。それではどうぞ、ご開封下さい」

 ポワソンの言葉に、パトリシアは事もなげにそう言い放った。

「パトリシアさま」

「いいの、シャルロット姉さま。大丈夫だから」

 ぎょっとして詰め寄ったシャルロットを、パトリシアは優しく抱きとめていた。


「ちなみに、夫人の著作にの“悪戯いたずら”があることは、ファンの中では常識だ。“湖面の月”でもそれがある、というだけなら、貴殿の推理はそれまでだ」

 セルヴァンが一歩前に出る。それで、ポワソンの焦りは一層、大きくなった。


「いいのか?開けるぞ?」

「お構いなく」

「そこなダンクルベールとやらは、構わんのか?」

「どうぞ。本官も、そこまではたどり着きましたので」


 ダンクルベールの淡々とした返答に、マレンツィオは驚いていた。

 二種類の“悪戯いたずら”にたどり着いた。それでもなお、パトリシアを疑っている。それは、なぜなのか。


「ひとつ目は、月を含む天体の名前。もうひとつは、月にまつわる故事やことわざ、季語など。そうですよね?ポワソン殿」

「そうだ。その通りだ。それではどうして、ボドリエール夫人を疑わん?」

「本官もセルヴァン本部長と同意見だというだけです。それでは、お確かめ下さい」

 ダンクルベール。のそりと前に出て、ポワソンにペーパーナイフを手渡していた。


 震える手で、ポワソンが一通目を開ける。

 パトリシア直筆の、叡智と勇気を称える手紙だった。


「肝心の二通目だ。さっさとしろ」

 脅すようにして、マレンツィオはポワソンに声を掛けた。

 それで腹を括ったのだろう。それでもいくらかの時間を掛けて、二通目を開けた。


 そうしてしばらく、ぼうっと突っ立っていた。


 いぶしげな顔のまま、セルヴァンがそれに近寄る。

 手元を見て、吹き出していた。


「残念でした。だってさ」

 大声で。


 それで、場は砕けた。皆、腹を抱えて笑っていた。

 マレンツィオは腹立たしげに鼻を鳴らすだけに留まった。


「貴女は小生を侮辱した。看過することはできない」

「名誉毀損で訴え出ることができる立場は、わたくしの方でございますわよ?ポワソンさま。早速、手続きを進めさせていただきますので、法廷でお会いしましょう」

「まあ、それ以前に諸々の罪状が引っ付いているんだがね。ウトマン、ヴィルピン。お前らの初手柄だ。しょっぴけい」

 警察隊将校への暴行と公務執行妨害の現行犯。及び、不法侵入と窃盗の疑い。確保。

 それを告げると、ウトマンとヴィルピンのふたりが、ポワソンの体に飛びついた。

「けっ、ざまあみやがれってんだ」

 連行されるポワソンを見ながら、マレンツィオはひときわに吠えてやった。


 シャルロットは、安堵したようにパトリシアに抱きついていた。パトリシアも謝意を示しながら、シャルロットを慰めていた。

 それが何より嬉しくて、ありがたかった。


 別室に、ダンクルベールとセルヴァンを呼んだ。今後の方針についてである。

「お前は、ポワソンと同じところまではたどり着いた、と言った」

「はい。そのうえで、もうひとつを見つけています」

「何だと?」

 セルヴァンが、怪訝な表情で挑みかかった。

については、セルヴァン本部長やポワソン殿がおっしゃっていた通り。もうひとつ、本当のがあります」

 そう言って、ダンクルベールは“湖面の月”を差し出した。


 “ダー川”。一章の八節。確かに、それはあった。


「なんだ、こりゃ?」

「調べたところ、北東エルトゥールルにある運河だそうです」

「“悪戯いたずら”の規則性とは合っている。確かに、これは“悪戯いたずら”だ」

 セルヴァンが震えていた。信じられないものを見るような顔だった。

 エルトゥールルの川。天体でも、月にまつわるものでもなく。なぜそれが、“悪戯いたずら”として選ばれたのか。


「ボドリエール夫人の狙いは、俺です」

 また、信じられないようなことを言ってきた。


 目を合わせる。やつれて、頬はけているが、目ははっきりとしていた。


「狙いはお前として、北東エルトゥールルの川。つまりは、お前の血にまつわるものか」

 そう言うと、ダンクルベールはしっかりとした首肯を返してきた。

 思い返す。犠牲者。言語学者、エルトゥールル派の議員。それなら、たどり着く可能性は大いにありえる。

 信じるしか、ないのかもしれない。


「情報解析室の応援を、要請したく思います」

 マレンツィオは、それをセルヴァンに告げた。


 確信に迫りつつある。

 しかしダンクルベールの体力と精神が、それに耐え切れるかどうか。


「本部長っ」

「わかっている。わかってはいる」

 かぶりを振りながら。

「少し、考えさせてくれ」

 それだけしか、回答としては得られなかった。


 コンスタンたちが到着したのは、その日の夜だった。マレンツィオはまず、コンスタンとふたりきりで会うことにした。


「ダンクルベールはきっと、たどり着きました。ですが、これから先はきついでしょう」

 経緯を伝えたうえで、結論を述べた。セルヴァンが渋った以上、ダンクルベールひとりで進めなければ、パトリシアに怪しまれる。


「もしくは本部にいる連中総出で暗号を解く。ガンズビュールと向こうの距離なら、悟られないはず」

「リュシアンがいやがるだろうな」

「女房が泣いてる。吐きながら本読んでるんです。見てられない。子どもたちに見せられないって」

「マレさんが隣にいてやりゃあいい。隣で、叱ってやってくれよ」

 少し寂しそうに、コンスタンはそう言ってきた。


「マレさんはよ。リュシアンに惚れてないから、それができるんだぜ。俺や、お前のシャーリーみてえに、リュシアンに惚れちまうと、一緒になって泣いちまうんだ。つらいよね、悲しいよねってさ」

「俺は、何にもできないですよ。それこそ叱るぐらいだ。ダンクルベールのために、何の役にも立ててやれない」

「上に立ってやれてるじゃねえか、マレさんよ」

 ラガーの瓶を喇叭らっぱにしながら、笑っていた。


「あんたは、人の上に立つことしかできないやつなんだぜ?」

「そいつは、どういう?」

「俺のかあちゃんとそっくりなんだよ。めそめそしてると、横っ面、はたいてきやがる。そうやって、涙で溺れる可哀想なやつら、あんた、まとめて引き上げてくれる。飛び立てない雛ども、怒鳴りつけて飛び立たせてくれる。マレさんのでっかい体が後ろに控えてる。そのおっかなさが、他のひとにはどんだけありがたいかって話さ」

 酌をしてくれた。酒と煙草に焼かれた、がらがら声で。まるで歌うようにしながら。


「マレさん、今まで通りやってくれよ。それだけでリュシアン、きっとやり遂げてくれるはずさ」

「それでいいんですかね?」

「何にもできねえって言ったろ?だったらいつも通りだ。何にもしねえで、どっかりと腰を据えてりゃあいい。それがきっと、天下御免っていう大舞台だ」

「舞台、ですか」

「リュシアンは一流の役者だけど、舞台そのものにはなれやしない。あんたぐらいだぜ、マレさん。あんたが出番を用意すれば、リュシアンはきっと、のびのびと名演技できるはずなんだぜ」


 自分は、舞台そのもの。

 その言葉に、どうしてか得心している自分がいた。


 捜査官としては凡庸だろう。だが、人を動かすのだけは得意だった。そして動かした人を管理することも。

 ダンクルベールを動かす。やることは変わらない。なら、それでいいじゃないか。

 微笑んでいた。きっとそれをみとめて、コンスタンも口端だけで微笑んだ。


「黒のパティが抱いてるそいつは恋じゃなかった。リュシアンって名前欲しさに狂った踊り子さ。だったらその、愛しのリュシアンに払ってもらうだけ。勝手に呼んだをな」

「その件は、うちの女房が勝手をしてしまい」

「構いやしねえ。名前なんざ勝手に呼べばいいんだ。心の底から出たものを。ベンジーでもジェニーでも。結局、あいつは俺を羨ましがっただけなんだよ」

「おっしゃる意味がわかりませんな」

「俺はオーブリー・ダンクルベールに、リュシアンという世界を見つけた。あいつは世界を見つけたけど、名前の付け方がわからなかった。だから俺の見た世界からリュシアンという名前だけを奪おうとした。それでも行くって言うなら行かしてやるけど、間違った音色は迷路にしか届かないんだぜ?マレさんはシャーリーに対して、シャルロットという世界しか見出していないはずだ。そうだろう?」

「確かにまあ、そうですな」

「ここでマレさんが、あのひとのことをシャーリーって呼んだら、違うじゃんか」

 不敵な笑み。どうしてか、つられた。


「おっしゃるとおりです。俺はあれを、シャーリーとは呼びたくない」

「そういうことを、あいつは望んだってことさ。そして、間違った愛だけが実っちまった。リュシアンの望まないものがね」

「愛は、双方向であるべきです。ただまあ、いいも悪いも、それぞれの感性ですから」

「そう。だから、誰も悪くはない。よくもないけどね」

 きっとお互い、言葉では何を言っているかは、わかっていない。でも何となく、心の方で、言わんとしていることはわかった。


 俺にとっては、あの男はダンクルベールであり、俺のいちばん大事なあのひとは、シャルロット。それがいいことだと、俺が定めたのだから。

 パトリシアというひとは、定めずに奪うことでしか、そうできなかったのかもしれない。そう思うと、いくらか寂しいものを感じてしまった。


(つづく)

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