第16話:崩れ落ちる砂の城
小説「防波堤」 第十六話:砂の城、最後の砦
航平の耳にはもう、陽菜側の弁護士が突きつける、親権剥奪を求める冷たい言葉は届いていなかった。ただ、証言台で耐えるように涙をこらえる陽菜の憔悴しきった姿と、病院の白いベッドで眠る沙織の顔が、交互に彼の思考を麻痺させていた。自分の愛は、母親の愛に勝てるのか。その問いは、航平の足元を支えていた最後の地面を、根こそぎ奪い去っていくようだった。
「被告、高橋航平氏は、妻を一方的に疑い、追い詰め、家庭を破綻させました。そしてその疑念は、医学的根拠を欠いた、身勝手な思い込みに過ぎなかったのです。このような状況で、彼が果たして単独で、この幼い子の親権者としてふさわしいと言えるのでしょうか」
弁護士の言葉が、法廷の隅々にまで響き渡る。航平は、返す言葉がなかった。全て、その通りだった。沈黙は敗北の色を帯び、法廷の誰もが結末を予感した。航平の弁護士が力なく立ち上がり、降伏を告げようとした、まさにその瞬間だった。
「待ってください!」
法廷の後方の扉が勢いよく開き、甲高い声が響き渡った。そこに立っていたのは、肩で息を切り、髪を振り乱した航平の母・和子だった。その手には、少し黄ばんだプラスチック製のファイルが、震える手で固く握りしめられている。
「証言させてください! 全て……全て、この私のせいです!」
傍聴席がどよめき、廷吏が制止しようとするのを振り払い、和子は半ばよろめくように証言台へと向かった。その形相は、鬼気迫るものがあった。航平も、そして陽菜でさえ、何が起きているのか理解できず、呆然と母の姿を見つめるだけだった。
和子は、震える声で証言台のマイクを握った。
「陽菜さんは……陽菜さんは、不貞など働いておりません!」
和子の絶叫にも似た告白は、法廷の全ての音を飲み込んだ。時が止まったかのような静寂の中、彼女は堰を切ったように真実を語り始めた。
「当時、陽菜さんは二人目の子供を望んでいました。ですが、ご自身の血液型のことで深く悩み、航平に心配をかけまいと、この私にだけ相談してくれていたのです。私は……私は、陽菜さんの病気のこと、血液型のことが、航平には重荷になるのではないかと……。そして、あの、あなたの父親の……あの時の二の舞になるのが、怖くて……」
和子の言葉は、航平の記憶の扉を無理やりこじ開けた。そうだ、確かに陽菜は時折、次の子供の話をしていた。だが、仕事のプレッシャーに追われていた自分は、いつもそれを億劫に感じ、真剣に取り合わなかった。そのことが、陽菜をどれほど孤独にしたか。
「航平が『浮気相手』だと思い込んでいる男性は、私が紹介した、この分野の権威である産婦人科の先生です」
和子は証拠として、握りしめていたファイルを差し出した。そこには、陽菜の名前が記された通院記録と、医師からのカウンセリングメモが挟まれていた。
「あの日、航平が二人を目撃してしまったのは、病院で検査の結果を聞いた、その帰り道でした。陽菜さんは、胎児へのリスクがやはり高いと聞き、落ち込んでいました。先生が車で送ってくださったのは、ただの親切心からです。なのに……息子は、話も聞かずに陽菜さんを責め立てました。陽菜さんは、航平に余計な心配をかけたくない一心で『何でもない』と口をつぐみ、そして私は……私は、息子の剣幕に怯え、真実を話すことができませんでした……! 私が黙っていたせいで、二人の人生を……!」
和子は証言台に突っ伏し、嗚咽を漏らした。
航平の頭の中で、全てのピースが、おそろしく残酷な形で組み合わさっていく。陽菜の不安定だった言動。時折見せた深い悲しみ。あれは、自分に信じてもらえなかった絶望と、誰にも言えない秘密を抱えた孤独からくる、悲痛な叫びだったのだ。
自分が「正義」だと信じて築き上げた防波堤は、ただの独善と誤解で塗り固められた、脆い砂の城に過ぎなかった。自分こそが、無実の妻を疑い、傷つけ、一方的に断罪した加害者だったのだ。
その瞬間、航平はもう一つの真実に思い至り、全身の血が凍り付いた。
沙織が倒れた、本当の理由。
数日前、沙織が彼の古い荷物を整理していた時、「これ、あなたのもの?」と一枚のパンフレットを差し出したのを思い出した。それは、陽菜が通っていた産婦人科のものだった。その裏には、和子の走り書きで『陽菜さんへ。身体を大事にね。航平には私からうまく話しておくから』というメモが残されていた。
自分はその時、「ああ、母さんの知り合いの病院だ」と、気にも留めずに答えてしまった。
あの時、沙織は気づいていたのだ。航平と陽菜の間に、自分の知らない何かがあったことを。自分が拠り所にしてきた幸せが、誰かの犠牲の上に成り立つ、偽りの物語である可能性に。
陽菜からの電話は、引き金に過ぎなかった。沙織を内側から破壊したのは、陽菜の言葉ではなく、航平が与えた嘘の上に成り立っていた「幸せ」そのものだったのだ。
和子の告白が終わり、法廷は静かな混乱に包まれていた。
陽菜は、証言台の和子を見つめながら、静かに涙を流していた。長い間、心の奥底に封じ込めてきた苦しみが、ようやく日の下に晒された安堵。だが、今さら真実が明かされても、失われた時間は二度と戻らない。そのあまりにも深い虚しさが、彼女の心を覆っていた。
陽菜側の弁護士が、静かに、しかし確信に満ちた声で立ち上がった。
「裁判官。被告、高橋航平氏の主張は、根拠のない独善であり、その結果、無辜の妻を追い詰め、家庭を崩壊させました。和解後もその陰湿な嫌がらせは続き、その上、この場に及んで新たな被害者まで生み出している。もはや、親権者としてふさわしいか、議論の余地はないでしょう。この裁判の根底にあるのは、あまりにも醜く、身勝手な、一人の男のエゴイズムに他なりません」
航平には、返す言葉が一つもなかった。
自分が作り上げた防波堤は、内側から完全に崩れ落ちた。濁流が、過去も現在も未来も、全てを飲み込んでいく。病院で眠る沙織と、目の前で泣いている陽菜、そして何も知らずに眠る赤ん坊。その全てが、自分の犯した罪の、あまりにも重い代償に見えた。
自らの弁護士が、力なく首を振るのが視界の端に見えた。
もう、終わりだ。
「被告は……親権の主張を……」
弁護士が敗北を告げる言葉を紡ごうとした、その時だった。
「異議があります!」
法廷に、凛とした声が響いた。
全員の視線が、声の主へと注がれる。そこに立っていたのは、病院にいるはずの、沙織だった。その顔はまだ青白かったが、その瞳には、揺るぎない、強い意志の光が宿っていた。
(第十六話 了)
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