第15話「これからは、私たちから攻めに転じるんだ」



小説「防波堤」 第十五話:見えない手


陽菜さんの母親から得た情報――「まだ精神的に不安定」という言葉が、私の頭の中で繰り返し響いた。それは、私の闘いにおける最も有効な武器になるかもしれない。陽菜が完璧な母親で、揺るぎない幸福を築いているなら、付け入る隙はない。だが、彼女が内面に弱さを抱えているなら…そこを突けばいい。


第十二話で、私は樹の穏やかな生活を守りたいと訴えた。それは真実だった。だが、その穏やかな生活は、今や私から奪われている。ならば、あの女の平穏を乱すことこそが、樹を取り戻すための第一歩となる。彼らが手にした「静かな回復」は、私にとっては許しがたい幻だ。


どうやって揺さぶるか? 露骨な嫌がらせは証拠が残る。航平さんを刺激しすぎるのも得策ではない。彼らは今、二人で「共に戦う」と決意しているかもしれない。彼らの絆を壊さなければ。


赤ん坊の世話をする母親が、最も不安になることは何だろう? 自分の育児が間違っているのではないかという疑念。子供をうまく育てられないかもしれないという恐怖。陽菜さんは、出産直後に樹を手放した過去がある。その時の罪悪感や後悔は、彼女の心の深い傷として残っているはずだ。


その傷を、もう一度開かせる。


私は、匿名で手紙を書くことにした。差出人は不明。内容は、育児の不安を煽るような、ありふれた情報に紛れ込ませる。例えば、「最近、この辺りで子供の体調不良が流行している」「母親の些細な不注意が、子供の将来を左右することもある」「昔の母親の行いは、知らず知らずのうちに子供に影響を与える」…といった、受け取り手が自身の状況と照らし合わせて、勝手に不安になるような言葉を選ぶ。


さらに、陽菜さんが最も気にするであろう点――彼女が出産直後に樹から離れたこと――を示唆する、より個人的な内容を混ぜ込むことも考えた。例えば、「子供は母親の心の動きを敏感に感じ取ります」「過去に子供を悲しませた経験があると、なかなか信頼関係は築けないものです」など。直接的ではないが、陽菜さんが読めば、自分が過去にしたことへの罪悪感や、樹との関係への不安を掻き立てられるような言葉だ。


手紙は、航平さんの以前のアパート、つまり彼らが現在暮らしているアパートの郵便受けに投函する。陽菜さんの母親が、航平さんの会社の同僚に話したという情報から、会社の周辺にいる可能性は低いだろう。彼らがいるのは、あの古いアパートのはずだ。


夜が更けてから、私は再びアパートの近くに向かった。昼間は人通りが多いが、夜なら目立たない。薄暗い街灯の下で、呼吸を整える。手の中には、用意した封筒が握られている。


アパートの前に着き、周囲に誰もいないことを確認する。心臓が激しく脈打っているのが分かる。これは、罪悪感ではない。これから始まる闘いへの、緊張と高揚感だ。


そっと、郵便受けの隙間に封筒を差し込む。郵便受けの中で、他の郵便物の上に滑り落ちる音がした。これで、第一段階は完了だ。


この手紙が、彼らの「静かな回復」という幻想に、さざ波を立てることを願う。陽菜さんの不安を掻き立て、彼女が再び精神的に不安定になれば、航平さんはどうするだろう? また、一人で抱え込もうとするだろうか? それとも、陽菜さんを支えようとするだろうか?


陽菜さんが不安定になれば、樹の世話にも影響が出るかもしれない。そうなれば、私は「樹のため」という大義名分を持って、前に進むことができる。陽菜の母親が言っていた「娘の不安定さを心配している」という言葉も、その時に活きてくる可能性がある。


アパートの窓を見上げる。明かりはついている。あの部屋の中で、彼らはこの手紙に気づき、どんな顔をするのだろう。陽菜さんは、どんなに動揺するだろう。航平さんは、それをどう受け止めるだろう。


彼らが苦しむ姿を想像すると、心の奥底に黒い満足感が広がる。同時に、どうしても拭えない、私自身の孤独と喪失感も感じた。私は、あの中にいたかった。あの窓の明かりの下に、樹と航平さんと一緒にいたかったのだ。


「私の樹…」

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