第14話:蝕まれる心身、歪んだ正義の刃
小説「防波堤」 第十四話:外側の視線
「水野陽菜さん」――その声が頭の中で反響し、全身の震えが止まらなかった。信じられない。信じたくない。航平さんが、陽菜さんと、樹と、また一緒に暮らしているなんて。
アパートの部屋を見回す。航平さんのマグカップ、樹のおもちゃ。少し前まで確かに存在した「私たち」の生活の残骸。私の手は空虚な空間を掴むだけだった。もう、彼らはここにいない。
込み上げてくる激しい怒りと、奈落の底に突き落とされたような絶望感。感情の波に溺れそうになりながら、必死に自分を律した。駄目だ。感情に流されてはいけない。冷静に、状況を把握しなければ。
航平さんの会社の同僚の言葉から推測する。陽菜さんは体調を崩して実家にいたが、回復して航平さんの元に戻った。そして、樹と一緒に生活を再開している。いつから? なぜ、私に何も言わずに?
混乱した頭で考えられるのは、私の「譲れない一線」が、音を立てて崩れ去ったということだけだった。私が必死で守ろうとしたこの場所は、とうに奪われていたのだ。
だが、諦めるわけにはいかない。私の樹。私が愛情を注いだ、私の樹。あの無責任な女に、この子を渡すことなど、断じてできない。
私は、一旦アパートを出た。この部屋にいても、彼らがいないという現実を突きつけられるだけで、どうしようもない感情に囚われるだけだ。彼らがどこで暮らしているのか、知らなければならない。
昼間、会社の近くをそれとなく通り過ぎた。航平さんの姿は見えない。同僚たちの視線が、以前よりも冷たくなったように感じたのは、私の気のせいだろうか。
夜、以前の航平さんのアパート周辺を訪れた。古い、小さなアパートだ。その前で立ち止まり、建物を見上げる。明かりがついている部屋がある。あの部屋だろうか? かすかに、赤ん坊の泣き声のようなものが聞こえた気がした。
数日後、私は勇気を出して、陽菜さんの母親に連絡を取ってみた。あの時、私に頭を下げた、小柄でやつれた女性。彼女なら、陽菜さんの居場所を知っているかもしれない。
電話に出た陽菜さんの母親の声は、少し疲れているようだった。私が名乗ると、一瞬沈黙が流れ、それから、警戒とも困惑とも取れる声が返ってきた。
「奥平さん…」
「先日、樹に会いにいらした時のお話を聞いて、どうしてもお話ししたくて…陽菜さんの、今の状況を、少し教えていただけませんか?」
陽菜さんの母親は、最初は躊躇していたが、私が必死の調子で、自分がどれだけ樹を大切に思っているかを訴えると、根負けしたように話し始めた。
陽菜さんが実家に戻っていたこと。体調が回復し、航平さんの元へ戻ったこと。今は、以前のアパートで三人で暮らしていること。そして、陽菜さんがまだ精神的に不安定な部分があり、母親として心配していること。
話を聞きながら、私の心臓は鈍く痛んだ。やはり、本当だった。陽菜は、私の場所を奪った。
しかし、陽菜さんの母親の言葉の中に、私にとって有利な情報も含まれていることに気づいた。陽菜さんは、まだ完全に回復していない。精神的に不安定。
「…そうですか。陽菜さんも、大変な思いをされてきたのですね」
感情を押し殺し、同情的な声色を作った。
「もし、私が何かお役に立てることがあれば、いつでもお申し付けください。樹のことは、私も本当に心配ですので…」
陽菜さんの母親は、私の言葉に少し驚いたようだったが、それから、どこか力なく「ありがとうございます」と言った。
電話を切った後、私は全身から力が抜けるのを感じた。情報は得られた。陽菜さんが、まだ万全の状態ではないこと。そして、陽菜さんの母親が、娘を心配していること。
夜、再び航平さんのアパートの近くに行った。今回は、少し離れた場所から、建物の窓を見つめる。明かりがついている。その中に、私の樹がいる。陽菜と航平さんと一緒に。
想像するだけで、胸が張り裂けそうだ。陽菜が樹を抱き、航平さんがその隣にいる。私が夢見た、けれど手に入れることができなかった光景。それが、今、あの部屋の中で現実となっている。
外側から見つめる私。内側で「家族」を営む彼ら。
ガラス一枚を隔てた世界は、天国と地獄のように思えた。
だが、絶望だけでは終わらない。得た情報。陽菜の弱さ。そして、私の樹への揺るぎない愛情。
私は、このまま引き下がるつもりはない。第十二話で引いた「譲れない一線」は、彼らが越えてきたのだ。ならば、今度は私が、このガラスの壁を破る番だ。
陽菜さん。あなたが戻ってきたから、私はここに来た。
私の樹を、取り戻すために。
あなたの「静かな回復」は、私にとっては、始まるべきではなかった物語だ。
静かに見据えるアパートの窓。あの明かりの下に、私の闘いの全てがある。
これから、私の本当の「防波堤」を築く。それは、誰にも壊されない、樹を囲む壁だ。
(第十四話 了)
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