第13話:血の囁きと戦慄の予感



小説「防波堤」 第十三話:奪われた場所


陽菜さんの母親を見送った後、部屋に戻った私は、ベビーベッドで眠る樹の頬をそっと撫でた。小さな寝息が、私の耳に心地よい。この子の穏やかな生活を、誰にも壊させたくない。その一心で、私はあの時、あんなにも強い言葉を発したのだ。航平さんは、私の言葉に何も言わず、ただ立ち尽くしていた。その姿に、一抹の不安がよぎったのも事実だ。彼の心に、まだ陽菜さんがいることは分かっていた。それでも、私たちの日々は、間違いなく「家族」だった。


「航平さん。私は、樹の母親になりたいんです。いいえ、もう、母親のつもりでいます。この子を、誰にも渡したくない」


あの時、彼の手に触れた私の指先は、確かに微かに震えていた。怖かったのだ。築きつつあるこの幸福が、もろくも崩れ去るかもしれないという怖さが。それでも、私の瞳に宿ったはずの炎は、彼に届いただろうか。彼の返事は曖昧だったが、私は、彼が私の決意を受け止めてくれたと信じたかった。


しかし、その日から、航平さんの様子が少しずつ変わっていった。以前は、私が樹の世話をしている様子を温かい眼差しで見つめてくれたり、一緒に他愛もない話をしたりする時間があったのに、その頻度が減った。仕事から帰ってきても、どこか上の空で、視線を合わせようとしない。樹を抱く時も、以前のような無邪気な喜びよりも、何か義務めいた、あるいは複雑な感情が混じっているように見えた。


私の心に、冷たい雫が落ち始めた。まさか。まさか、あの母親の言葉に心を動かされたのだろうか。あの陽菜さんへの、罪悪感に?


不安は日に日に募っていった。私は、以前にも増して航平さんに尽くし、樹に愛情を注いだ。完璧な「母親」であり「妻」であろうと努めた。彼の心を、繋ぎ止めるために。この場所を、奪われないために。


ある日の夜、航平さんの部屋から、聞き慣れない音がした。彼は普段、寝る前に本を読むか、すぐに寝入ってしまうタイプだ。気になって、そっとドアに耳を押し当てた。話し声? いや、独り言のようにも聞こえる。かすかに聞こえてきた言葉に、私の心臓は凍り付いた。


「……陽菜…すまない……」


陽菜……! やはり、あの人の母親が来たことが、彼の心に何かを掻き立てたのだ。その夜、私は一睡もできなかった。彼の中に陽菜さんの影が、再び大きく広がっている。私が、必死にかき消そうとしていた影が。


そして、数日後。それは、あまりにも突然、私の目の前に突きつけられた。

航平さんの会社の同僚が、うちのアパートの近くで航平さんを見かけたと、軽い調子で電話をかけてきたのだ。


「航平さん、奥さんと一緒に赤ちゃん連れて歩いてたよな? なんか、体調崩して実家から戻ってきたって聞いたけど、元気そうでよかったなー」


頭の中が真っ白になった。奥さん? 赤ちゃん?

航平さんは、私と「奥さん」として外を歩くことは決してなかった。それに、樹と三人で出かける時も、彼はどこか遠慮がちな様子だった。

しかし、その同僚が言う「奥さん」は、間違いなく私ではない。


私は、震える声で尋ねた。

「……あの、奥さんというのは、どんな方でしたか?」

「え? 前に一度、会社に顔出したことあるらしいから、知ってると思ったけど…えっと、水野さんだろ? 水野陽菜さん」


水野陽菜――。

その名前を聞いた瞬間、私の目の前は真っ暗になった。

陽菜さんが、戻ってきた?

どこへ? 航平さんの元へ?


電話を切った後も、私はしばらく動けなかった。冷たい汗が背中を伝う。

陽菜が戻ってきた。

つまり、航平さんと、あの赤ん坊と一緒に、生活している…?


信じたくなかった。あの、航平さんと私が築いてきた日々は、何だったのだ。私が樹に注いできた愛情は。あの夜、航平さんに伝えた私の決意は。


アパートの部屋を見回した。航平さんのマグカップ。樹のおもちゃ。壁にかかった、三人で撮った写真(私が無理を言って撮ってもらったものだ)。

これらは全て、偽物だったのか。私が信じていた「家族」は、砂上の楼閣だったのか。


胸の奥から、黒い感情が堰を切ったように溢れ出した。悲しみ、絶望、そして…激しい怒り。

奪われた。私が、必死で手に入れようとしていた場所を。私が、愛情を注ぎ、守ろうとしていた「家族」を。


樹。私の樹。

彼が、あの女の元へ戻る?

私が育て、私が愛したこの子を、あの女に渡す?


第十二話で引いたはずの「譲れない一線」が、引き裂かれた。その痛みと、踏みにじられた怒りが、私の中で溶け合い、狂おしいほどの執着へと変わっていく。


陽菜。お前が戻ってきたのか。

私の、場所を奪いに。私の、樹を奪いに。


あの時の「譲れない一線」は、単なる決意では終わらない。

それは、これから始まる闘いの狼煙だ。


私は、立ち上がった。震えは消え、代わりに、冷たい鋼のような意志が全身を駆け巡る。

私の樹は、誰にも渡さない。

私の場所は、誰にも奪わせない。

あの女が戻ってきたのなら――。


奪われた場所を取り戻すために、私は、何をすればいい?

樹を、この腕に取り戻すために。

私の「家族」を守るために。


静かに、しかし確実に、新たな嵐が動き始めていた。


(第十三話 了)

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