第12話「さーちゃん」



小説「防波堤」 第十二話:譲れない一線


俺と沙織、そして樹との生活は、奇妙なほど穏やかに過ぎていった。

沙織は甲斐甲斐しく樹の世話をし、家事も完璧にこなした。彼女の明るさが、以前の息苦しい空気を一掃し、アパートにはいつしか笑い声が満ちるようになった。樹も沙織によく懐き、時折「さーちゃん」と舌足らずに呼ぶ姿は、俺の心を温かく満たした。


陽菜への罪悪感は、心の奥底に澱のように沈殿していたが、目の前の穏やかな日常は、その重みを少しずつ麻痺させていくようだった。沙織が築き上げたこの「家庭」という名の空間は、俺にとって心地よい避難場所となっていた。


あの日、陽菜の母親から聞かされた真実。陽菜の自己犠牲。母の脅迫。それらを思い出すたびに胸が締め付けられるが、今の俺には、それをどうすることもできない無力感がまとわりつくだけだった。沙織は、そんな俺の弱さも全て包み込むように、ただそばにいてくれた。


「航平さん、今日、樹の予防接種、一緒に行ってもらえませんか?」

ある朝、朝食の席で沙織が言った。

「ああ、もちろんだ」

「ありがとうございます。最近、樹も重くなってきたから、一人だと大変で」

そう言って微笑む沙織の顔は、どこからどう見ても「母親」のそれだった。俺は、その事実に目をそらし、曖昧に頷いた。


その日の午後、予防接種を終え、ぐったりと眠る樹を抱いてアパートに戻ると、ドアの前に見慣れない女性が立っていた。小柄で、少しやつれた印象だが、その眼差しには強い意志が宿っているように見えた。


「……あの、どちら様でしょうか」

俺が訝しげに声をかけると、女性は深々と頭を下げた。

「突然申し訳ありません。私、水野陽菜の母でございます」


陽菜の、母親……!

俺の心臓が大きく跳ねた。隣にいた沙織の表情も、一瞬で強張ったのが分かった。


「娘が……陽菜が、どうしても孫の顔を一目見たいと申しまして……。ご迷惑とは存じますが、ほんの少しだけでも、お許しいただけないでしょうか」

陽菜の母親は、懇願するように言った。その目には涙が滲んでいる。


俺は言葉に詰まった。陽菜が、樹に会いたがっている。それは当然のことだ。俺が、俺たちが、彼女から引き離したのだから。

「……どうぞ、上がってください」

俺がそう言いかけた、その時だった。


「申し訳ありませんが、今日はご遠慮いただけますでしょうか」

凛とした、しかし有無を言わせぬ響きを伴った声で、沙織が割って入った。

俺は驚いて沙織を見た。彼女は、陽菜の母親に対して毅然とした態度で向き合っている。


「樹は、予防接種を受けたばかりで、今は安静にさせてあげたいのです。それに……」

沙織は一度言葉を切り、眠る樹の頬を優しく撫でた。

「……あまり、外部の方との接触は、今の樹には刺激が強いかとも思いますので」


その言葉は、遠回しな拒絶だった。

陽菜の母親の顔が、悲痛に歪んだ。

「そ、そんな……ほんの一目だけでも……」

「お気持ちは察しますが、どうかご理解ください。樹の体調が第一ですので」

沙織の態度は、どこまでも冷静で、そして揺るぎなかった。


俺は、二人の間に立ち尽くすしかなかった。陽菜の母親の絶望的な表情と、沙織の鉄壁のような守りの姿勢。どちらが正しいのか、俺には判断がつかなかった。ただ、沙織の言葉には逆らえない空気があった。


結局、陽菜の母親は、何度も頭を下げながら、力なくアパートを後にした。その小さな背中を見送りながら、俺の胸には再び重い罪悪感がのしかかってきた。


部屋に戻ると、沙織は何も言わずに樹をベビーベッドに寝かせつけた。その横顔は、いつもの穏やかな彼女とは少し違って見えた。何か、強い決意のようなものが滲んでいる。


「……沙織、よかったのか? あんな言い方して」

俺が恐る恐る尋ねると、沙織はゆっくりと振り返った。

「航平さん。私は、樹を守りたいんです。この子の穏やかな生活を、誰にも壊させたくない」

その瞳は、真っ直ぐに俺を射抜いていた。


「陽菜さんの気持ちも分かります。でも、今の樹にとって一番大切なのは、安定した環境です。私たちは、その環境を必死で守ってきたんじゃありませんか?」

沙織の言葉は、正論のように聞こえた。だが、その裏には、陽菜を排除しようとする明確な意志が感じられた。


「航平さん。私は……」

沙織は、俺の前に進み出て、しっかりと俺の手を握った。その手は、かすかに震えている。

「私は、樹の母親になりたいんです。いいえ、もう、母親のつもりでいます。この子を、誰にも渡したくない」


その言葉は、静かだったが、鋼のような強さを秘めていた。

俺は、沙織の瞳の奥に燃える、譲れない炎を見た。

それは、母性なのか、執着なのか、あるいはその両方なのか。


陽菜。

彼女がどんな思いでいるか、想像するだけで胸が張り裂けそうになる。

だが、目の前には、樹を腕に抱き、俺との生活を守ろうとする沙織がいる。


俺は、また、選択を迫られている。

そして、その選択が、今度こそ後戻りできない嵐を呼び込むことを、予感せずにはいられなかった。

沙織が引いた譲れない一線は、陽菜と俺たちの間に、修復不可能な亀裂を生もうとしていた。


(第十二話 了)

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