第11話「亀裂」
小説「防波堤」 第十一話:偽りの夜明け
ファミレスを出た俺は、ふらふらと街を彷徨った。頭の中は、陽菜の母親から聞かされた真実で飽和状態だった。骨髄移植。血液型。そして、母の脅迫。自分が信じていた「陽菜の裏切り」が、実は彼女の自己犠牲であったという事実が、俺の心を激しく打ちのめした。
愚かだ。あまりにも、俺は愚かだった。陽菜の必死のサインを見落とし、母の言葉を鵜呑みにし、あの子を信じきれなかった。俺が彼女を傷つけ、この家庭を壊したのだ。激しい自己嫌悪が、波のように押し寄せ、俺を溺れさせる。
「俺が、お前を追い詰めたんだ……合わせる顔なんて、ない……」
陽菜の母親から渡された、陽菜の居場所を示すメモは、汗ばんだ手の中でくしゃくしゃになっていた。足は自然と駅へ向かおうとする。謝らなければ。だが、その一歩が、鉛のように重い。俺のような男が、今更どの面を下げて陽菜の前に立てるというのだ。彼女の苦しみを思えば思うほど、自分の存在そのものが彼女をさらに傷つける凶器のように思えてならなかった。
アパートに戻り、俺はベビーベッドで眠る赤ん坊の顔を見つめた。この小さな命の存在だけが、かろうじて俺をこの世に繋ぎとめている。だが、この子のためにも、俺はどうすればいい? 陽菜を取り戻す? いや、俺にその資格はない。母の脅威から、陽菜とこの子を本当に守れるのか? 俺の決意など、母の前ではまた簡単に砕け散るのではないか……。
絶望感が、じわじわと俺の心を蝕んでいく。陽菜に会いに行く勇気も、未来を切り開く気力も、今はもう残っていなかった。ただ、この息苦しさから逃れたい。その一心だった。
その時、スマートフォンの着信音が鳴った。画面には「奥平沙織」の文字。大学時代の後輩で、陽菜がいなくなり、俺が育児と仕事で途方に暮れていた時、何かと相談に乗ってくれ、時には食事を作って持ってきてくれるなど、親身に世話を焼いてくれた女性だった。
正直、最近は彼女の厚意に甘えすぎている自覚もあり、少し距離を置いていた。だが、今の俺には、その着信音がまるで暗闇に差し込む一筋の光のように思えた。
「……もしもし」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
『航平さん? 大丈夫ですか? なんだか声が……。実は、駅前で航平さんらしき人を見かけた気がして。すごく、辛そうに見えたから……心配で電話しちゃいました』
沙織の声は、いつもと変わらず落ち着いていて、それでいて温かみがあった。
「沙織か……。いや、大丈夫じゃない……全然、ダメなんだ……」
堰を切ったように、俺の口からは弱音があふれ出た。陽菜のこと、母のこと、自分の愚かさ。支離滅裂だったかもしれないが、俺は誰かに聞いてもらいたかった。
『……そうだったんですね。辛かったでしょう』
沙織は、ただ静かに俺の言葉に耳を傾けてくれた。そして、しばらくの沈黙の後、こう言った。
『航平さん、今どこですか? もしよかったら、少しだけ……話を聞かせてもらえませんか? 赤ちゃんも、一人じゃ大変でしょうし』
その言葉に、俺は抗えなかった。
数時間後、俺の部屋には沙織がいた。彼女は手際よく赤ん坊のミルクを作り、俺には温かいコーヒーを淹れてくれた。その間も、俺の話を静かに、だが真剣な眼差しで聞いてくれた。
「俺は……陽菜に会いに行くべきなんだろうか……。でも、怖いんだ。また傷つけてしまうのが……それに、母さんのことも……」
沙織は、俺の震える手をそっと握った。その手は温かかった。
「航平さん。今は、無理に答えを出さなくてもいいと思います。まずは、ご自身が少しでも休んで、落ち着くことが大切です。陽菜さんのことも、お母様のことも……一人で抱え込まずに、私でよければ、いつでも頼ってください」
彼女の瞳は、真っ直ぐに俺を見つめていた。その瞳の奥に、確かな意志のようなものを感じた。
「陽菜さんのアパートには……今はまだ、行かない方がいいかもしれません。航平さんがこれ以上苦しむ姿を、陽菜さんも望んでいないはずです。まずは、航平さん自身の生活を立て直しましょう。赤ちゃんのためにも」
沙織の言葉は、不思議な説得力を持っていた。それは、今の俺が最も聞きたかった言葉だったのかもしれない。
その日から、沙織は頻繁に俺の部屋を訪れるようになった。家事を手伝い、赤ん坊の面倒を見てくれ、そして何よりも、俺の精神的な支えとなってくれた。彼女の存在は、荒れ狂う海の中で見つけた浮き輪のようだった。
数週間が経つ頃には、沙織はほとんど俺の部屋で生活するようになっていた。彼女がいると、部屋の空気は明るくなり、赤ん坊もよく笑うようになった気がした。俺自身も、少しずつだが、悪夢のような日々から抜け出しつつあるのを感じていた。
「航平さん。もし、迷惑でなければ……私も、ここで一緒に暮らしてもいいですか? その方が、赤ちゃんにとっても、航平さんにとっても、いいと思うんです」
ある晩、沙織はそう切り出した。俺に断る理由はなかった。むしろ、彼女のいない生活はもう考えられないほどになっていた。
陽菜への罪悪感が消えたわけではない。心の奥底では、常に彼女の面影がちらついている。だが、今は沙織が差し伸べてくれたこの温かい手にすがりたい。この偽りかもしれない安息の中で、少しでも息を継ぎたかった。
こうして、俺と沙織、そして赤ん坊との奇妙な共同生活が始まった。
それは、陽菜との再構築とは程遠い、新たな選択。
そして、この選択が、やがて陽菜との間で、避けられない嵐を引き起こすことになるなど、この時の俺はまだ知る由もなかった。
俺が築き始めたのは、真の「防波堤」ではなく、次なる嵐を呼び込む、脆く歪な仮初めの砦だったのかもしれない。
(第十一話 了)
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