第10話:交錯する思惑、新たな火種



小説「防波堤」 第十話:壊れた壁の向こう


あの夜以来、俺の頭の中は怒りと絶望と、そして一抹の期待でぐちゃぐちゃだった。陽菜の母親に電話をかけ、「お話があります。今すぐ会っていただけませんか」と半ば一方的に告げた。俺の声には、昨日の尾行で見た真実への怒りと、全てを終わらせるという決意が漲っていた。


会う場所に指定したのは、駅前のファミレスだった。ガラス張りの店内は昼時で賑わっており、家族連れの楽しそうな声が響く。そんな中で、俺と陽菜の母親は、互いに緊張した面持ちで向かい合っていた。彼女の顔には疲労の色が濃く、俺と目を合わせようとしない。


「単刀直入に伺います」

俺は、震える声を押さえつけ、努めて冷静に切り出した。

「昨日、あなたの家から陽菜さんが出てくるところを見ました」


陽菜の母親は、ピクリと肩を震わせた。彼女の白い指が、テーブルの上の水滴を無意味になぞる。

「……何を、おっしゃっているのか……」

彼女はか細い声で否定しようとしたが、その声はひどく上擦っており、目も泳いでいた。


「嘘は、やめてください。俺は自分の目で見たんです。陽菜が、あなた方の家から出てくるところを。そして、その数日前から、この子がやたらと寂しがるようになったこと。陽菜さんが使っていたものとよく似たハンカチを持っていたこと。全て、繋がっている」


俺の言葉は、まるで冷たい刃のように彼女に突き刺さった。陽菜の母親は、テーブルに視線を落としたまま、微動だにしない。その肩が、小刻みに震えているのが見えた。周囲の喧騒が、遠のいていく。


「なぜ、そんな嘘をついたんですか。なぜ、俺に隠れて陽菜と子供を会わせたんですか! 陽菜は、どこにいるんですか!」

俺の声は、もはや怒りを隠しきれてはいなかった。


陽菜の母親は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は、涙で潤んでいた。

「……申し訳、ありませんでした……」

その言葉と共に、彼女の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。


「そうせざるを得なかったんです。陽菜を……娘を守るために……」


娘を守る? なんだそれは。

俺の怒りが頂点に達しようとした、その時、彼女は絞り出すような声で、衝撃の真実を語り始めた。


「……航平さん、実は、陽菜は……あなたと出会うずっと前に、重い病気で骨髄移植を受けているんです」

俺の思考が、一瞬停止した。骨髄移植? そんな話、陽菜からは一度も聞いていない。


「移植によって、陽菜の血液はドナーの方の血液型に変わってしまったんです。だから、病院での検査結果はO型と出たのでしょう。ですが、彼女の本来の血液型は、あなたのA型と組み合わさって、O型のお子さんが生まれてもおかしくない型なんです」


「……え……?」

俺の頭の中で、何か巨大なものが音を立てて崩れ落ちた。

血液型不適合。その、俺をこれほどまでに苦しめた謎が、たった一つの、しかし想像もしなかった事実によって、あっけなく解体されていく。


「陽菜も、このことをあなたにどう説明すればいいか、ずっと悩んでいました。特に、お母様が……血液型のことを持ち出されたと聞いて、これでは何を言っても信じてもらえない、と……。私が無理にでも、正直に話すべきだったのに……」


彼女は嗚咽を漏らしながら続けた。

「陽菜は……あなたを信じていました。愛していました。でも、あの子は……自分のせいであなたや、この子が傷つくことを何よりも恐れたんです。だから、あなたのお母様の厳しい言葉から、あなたを、そしてこの子を守るために……あの子は、一度、あなたの前から姿を消すことを選んだんです……」


俺は、テーブルの上の水滴を凝視した。自分の目から、次々と涙が溢れ、水滴と混ざり合う。

愚かだ。あまりにも、俺は愚かだった。

陽菜が、俺に隠れて何をしているのかと疑っていた。裏切り者だと決めつけていた。

だが、真実は、彼女が俺と、そしてこの子を守ろうとしていたというのか。

俺が築こうとしていた「防波堤」は、陽菜自身が、血を吐くような思いで築き上げようとしていた、自己犠牲の壁だったというのか。


母の罵倒、俺の疑惑、陽菜の沈黙。全てが、一本の線で繋がった。

そして、その全てが、俺の誤解と、信じきれなかった弱さゆえに起きたことだと、痛感した。


俺は、陽菜を追い詰めた加害者だった。


「……陽菜は……どこにいるんですか」

俺の声は、震えながらも、以前のような怒りは宿していなかった。


陽菜の母親は、ハンカチで涙を拭いながら、か細い声で答えた。

「あの子は……私の実家近くの、小さなアパートに身を寄せています。あまりにも憔悴していたので、しばらくは静かにさせてあげたいと……。でも、航平さんのことは、ずっと心配していました。そして、あの赤ちゃんを……」


彼女は、俺に陽菜のアパートの住所と、内緒で使っている携帯電話の番号を書いたメモを差し出した。

「あの子に会って、話してあげてください。きっと、あなたと、あの赤ちゃんが、あの子の希望になりますから……」


俺はメモを握りしめた。

俺が、なんとかする。

今度こそ、俺が守る。

過去の過ちを償い、陽菜を、そしてこの家庭を、真の意味で「防波堤」となってみせる。


ファミレスの賑やかな喧騒の中で、俺の心は不思議なほど静かだった。

この真実の重みが、俺の人生の全てを変えるだろう。

そして、それは、陽菜とこの子にとっての、新しい始まりの合図となるはずだ。

俺は、静かに椅子を立った。


(第十話 了)

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