第9話「揺れる天秤、新たな影」



小説「防波堤」 第九話:偽りの凪


陽菜の母親からの電話は、俺の心に重い錨を降ろした。孫に会いたいという彼女の切実な願いと、陽菜自身の身勝手さ。その間で、俺の心は天秤のように揺れ動いた。母に相談すれば、烈火のごとく反対されるのは目に見えている。「あの女たちに何をされるか分からない」という母の声が、幻聴のように頭の中で響いた。だが、現実問題として、俺一人で赤ん坊の世話をしながら仕事に復帰するのは不可能に近かった。


数日悩んだ末、俺は陽菜の母親に連絡を取った。

「……たまにであれば」

その言葉を口にするのに、どれほどの覚悟が要ったことか。俺は条件を付け加えた。陽菜本人との接触は絶対に避けること。そして、彼女の状況について知っていることは正直に話してほしい、と。電話の向こうで、陽菜の母親は涙声で感謝の言葉を繰り返した。


そうして、偽りの凪のような日々が始まった。

陽菜の母親に赤ん坊を預ける。最初は、自分の内臓の一部を預けるような、言いようのない不安があった。これは陽菜が母親を利用した罠ではないのか。そんな疑念が、常に頭の片隅に巣食っていた。


だが、彼女が赤ん坊を預かってくれる時間は、消耗しきった俺にとって、間違いなく束の間の休息だった。俺は少しずつ仕事に復帰する準備を進めることができた。陽菜の母親は、赤ん坊の扱いにも慣れており、その眼差しは確かに初孫を慈しむ祖母のものに見えた。陽菜の状況については、相変わらず「時々連絡があるだけで…」とはぐらかされるばかりだったが。


「航平さん、少しお疲れじゃないですか? 男手一つでは大変ですものね」

時折、彼女が口にする同情を装った言葉に、微かな棘を感じることもあった。まるで、俺の無力さを試しているかのように。それでも俺は、この歪な協力関係に頼らざるを得なかった。


しかし、その凪は長くは続かなかった。

最近、赤ん坊の様子がおかしいのだ。

陽菜の母親の家から帰ってくると、以前にも増して俺にまとわりつき、夜泣きも増えた。そして次に預ける時になると、まるで引き離されるのを絶望するかのように、俺の服にしがみついて離れようとしない。その小さな手の力は、驚くほど強かった。


最初は、環境の変化によるものかと思っていた。だが、その執拗なまでの寂しがり方は、単なる人見知りとは違う。まるで、一度知ってしまった極上の温もりを、再び失うことを恐れているかのようだった。


まさか――。

あってはならない疑念が、毒蛇のように鎌首をもたげる。

陽菜の母親は、俺との約束を破って、陽菜にこの子を会わせているのではないか?


赤ん坊が母親を求めるのは当然のことだ。もし、陽菜がこっそり会いに来て抱きしめているのなら、赤ん坊が陽菜の温もりを覚え、再び離されることに不安を感じても不思議ではない。それが、陽菜の言っていた「わたしらしいやり方」なのかもしれない。


ある日、陽菜の母親から赤ん坊を受け取った際、ふと、赤ん坊が握りしめている小さなガーゼのハンカチに目が留まった。見慣れない、柔らかな花柄のハンカチ。それは、陽菜が好んで使っていたものと、あまりにもよく似ていた。


「このハンカチは…?」

俺が尋ねると、陽菜の母親は一瞬、凍りついたような表情を見せたが、すぐにいつもの穏やかな笑顔に戻り、「ああ、うちにあったものですわ。汚してしまったので、代わりに」と答えた。

その答えは、あまりにも用意周到に聞こえ、俺の疑念を確信へと変えた。


もう我慢の限界だった。この曖昧な状況を、俺が終わらせる。


次の週末、俺は陽菜の母親に赤ん坊を預けると、車で彼女の家の近くまで向かった。大通りから一本入った路地に車を停め、物陰から、息を殺してその家を監視する。心臓が、肋骨を内側から叩いていた。見つかることへの恐怖と、真実を知ることへの恐怖が、俺の全身を締め付けた。


時間が、拷問のようにゆっくりと流れる。

数時間後、その家の玄関のドアが、静かに開いた。

出てきたのは、見慣れた人影だった。


時間が止まったかのようだった。

風に揺れる髪。以前よりも少し痩せたように見える横顔。

間違いない。陽菜だ。

だが、その表情には、俺の知る陽菜の面影はなかった。何かを決意したような、硬質な美しさと、全てを諦めたような深い影が同居していた。


陽菜は、何かを名残惜しむように一度だけ家を振り返ると、早足で角を曲がり、姿を消した。


血の気が、急速に引いていくのを感じた。

やはり、俺の疑念は正しかったのだ。陽菜の母親は、俺を裏切り、陽菜と子供を会わせていた。そして陽菜は、俺に隠れて、自分の子供と会っていたのだ。


怒りが、絶望が、そして形容しがたい裏切りの感情が、俺の中で濁流となって渦巻いた。

俺は一体、何を信じればよかったというのだ。

あの涙声の感謝も、協力的な態度も、全ては俺を欺くための、母娘ぐるみの芝居だったというのか。


俺は、ハンドルを強く握りしめた。指の関節が、白く浮き上がる。

もう、終わりだ。

この偽りの関係も、陽菜へのわずかな未練も。

全て、終わらせなければならない。


(第九話 了)

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