第8話「…わたくし、陽菜の…母です」



小説「防波堤」 第7話:二つの電話


母・和子との電話は、予想通り、いや、予想以上に荒れたものになった。

「陽菜さんが家を出て行った? 置き手紙? ……だから言ったでしょう!」

受話器の向こうから聞こえる母の声は、心配ではなく、自分の予言が的中したことへの喜色に満ちていた。俺が陽菜の言葉や血液型のことを伝えると、母は激昂し、陽菜への罵詈雑言を並べ立てた。


「そんな女、こちらから願い下げよ! 航平、あなたは騙されていたのよ!」

「……もういい、切るぞ」

「待ちないさい! その子はどうするつもり? あなた一人で育てられるわけがない。私が面倒を見ます。それが高橋家の……」


俺は、母が言い終わる前に通話を切った。リビングには、再び重苦しい沈黙が戻る。腕の中ですやすやと眠る赤ん坊の寝顔だけが、この荒んだ現実の中の唯一の救いだった。


俺は、陽菜が残した手紙を何度も読み返した。矛盾に満ちた言葉の羅列。だが、そのインクの滲みからは、陽菜の必死さが伝わってくる気がしてならなかった。


答えの出ない問いを呟いた、その時だった。

けたたましい着信音が、静寂を破った。びくりとしてスマートフォンを手に取る。ディスプレイに表示されたのは、見慣れない市外局番だった。


一瞬、陽菜かもしれない、という淡い期待が胸をよぎる。しかし、すぐにそれを打ち消した。わずかな可能性にすがりたい気持ちと、また新たな厄介事が舞い込んでくるのではないかという警戒心が、俺の中でせめぎ合う。


「……はい」

ややぶっきらぼうな声で電話に出ると、受話器の向こうから聞こえてきたのは、思いがけない人物の声だった。年の頃にしては少し若々しく、しかし、どこか切羽詰まったような響きを帯びた女性の声。


「もしもし、高橋航平さんの……お電話でいらっしゃいますか?」

「はい、そうですが……どちら様でしょうか?」


一瞬の間があった。そして、その声は震えながら告げた。

「……わたくし、陽菜の……母です」


陽菜の母――。その言葉は、俺の思考を数秒間停止させた。先ほど電話したばかりなのに、なぜまた? いや、先ほど電話したのは俺からだ。彼女からかかってくるのは初めてだった。そして、その声には先ほどとは違う、何か尋常ではない気配が宿っていた。


「陽菜さんの、お母様。何か……?」

努めて冷静に問い返したが、自分の声がわずかに上擦っているのが分かった。


「あの……先ほどは取り乱してしまい、申し訳ありませんでした。航平さんにご迷惑をおかけしていることは重々承知しております。本当に……」

娘の行動を詫びる、その殊勝な態度に、俺は逆に警戒心を強めた。先ほどの電話で話せばよかったはずだ。わざわざかけ直してきたのには、何か特別な目的があるに違いない。

そして俺は、彼女が意図的にある話題を避けていることに気づいた。先ほど俺が尋ねた、「大学時代の男」のことだ。


「……娘から、頼まれまして」

「陽菜さんから、ですか?」

俺の声に、わずかな期待が滲んだのを自分でも感じた。陽菜は、母親を通じて何かを伝えようとしているのか。


「はい。……その、子供のことだけは、とても気にかけているようでして……」

そして、彼女は本題を切り出した。

「つきましては……大変ぶしつけなお願いとは存じますが……あの、赤ちゃんに……たまにで結構ですので、会わせていただくことはできませんでしょうか? わたくしどもにとりましても、初孫になりますので……」


初孫――。その言葉は、俺の胸にズシリと重く響いた。

怒りがこみ上げてくるのを、必死で抑えた。陽菜自身は姿をくらませておきながら、自分の親を通じて孫に会わせろと要求してくる。それはあまりにも虫の良い話ではないのか。


しかし、一方で、陽菜の母親の言葉には、切実な響きがあった。血の繋がった孫に会いたいという、祖父母としての当然の感情。そして、何よりも、この赤ん坊にとって、母親側の祖父母との繋がりを持つことは、悪いことではないのかもしれない。この子には、罪はないのだから。


俺は、初めて「夫」としてではなく、「父」として物事を考えていた。それは、この数日間の地獄のような育児の中で、俺の中に芽生えた、小さな、しかし確かな変化だった。


「……陽菜さんは今、ご実家に?」

感情を抑えて尋ねる。もしそうなら、話は早い。


「いえ……それが、あの子、どこにいるのか、私たちにもはっきりと教えてはくれなくて……ただ、時々、連絡だけはよこすのです。子供の様子を気にして……」

歯切れの悪い言葉。何かを隠しているのか、あるいは本当に知らないのか。

陽菜は母親にすら、居場所を告げていない? それなのに、孫には会いたい、と?


陽菜の行動は、どこまでも不可解で、そして自分勝手に見えた。

しかし、この電話は、陽菜の真意に近づくための、数少ない糸口になるかもしれない。


「……少し、考えさせていただけますか。俺の一存では決められないこともありますので」

母の顔が脳裏をよぎる。あの剣幕では、この申し出を伝えれば、火に油を注ぐだけだろう。それが、俺が絞り出せる、精一杯の返事だった。


「……はい、もちろんです。お忙しいところ、申し訳ありませんでした」

陽菜の母親は、そう言って静かに電話を切った。


通話が切れたスマートフォンを握りしめたまま、俺は深くため息をついた。

陽菜の母親からの、予想外の申し出。

それは、新たな波紋のように、俺の心をかき乱す。この申し出を受けるべきか、断るべきか。これは、謎を解くための一条の光か、それとも新たな罠の始まりか。


俺は、腕の中の赤ん坊の顔を見つめた。この子のために、俺は何をすべきなのか。

答えは、まだ濃い霧の中にあった。


(第七話 了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る