第7話第六話:引き裂かれた真実(後編)



小説「防波堤」 第六話:


夜明けの気配が、薄いカーテンの隙間から忍び寄る。隣で眠るあなたの穏やかな寝顔と、ベビーベッドから聞こえる小さな寝息。この部屋に満ちる、私が愛したはずの日常。それを自ら壊そうとしていることの重みに、何度も心が押し潰されそうになった。


テーブルの上に置いた一枚の便箋。震える手で、何度も書き直した言葉。

『わたしは、あなたの思うような女ではありません。』

これは叫びだ。理想の妻になれなくてごめんなさい、という謝罪じゃない。あなたの期待という檻の中で、私はもう息ができない。そう、これは、私の最後の呼吸。


クローゼットから自分の服を抜き取り、小さなバッグに詰める。あなたのものが並ぶ空間に、ぽっかりと空いた私の場所。それが、これから訪れる現実を突きつけてくる。


何が、私をここまで追い詰めた?

脳裏に蘇るのは、あの日の義母の冷たい目。生まれたばかりのこの子を覗き込み、まるで値踏みするように呟いた言葉。「本当に、航平の子なの?」。そして、その言葉を聞いても何も言わず、ただ私から目を逸らした、あなたの顔。

あの沈黙が、私を殺した。あなたの優しさも、愛情も、あの沈黙の前では全てが無力だった。だから、もう言葉では伝えられない。


引き出しの奥、あなたとの思い出を仕舞った桐の箱。これだけは、どうしても置いていきたかった。誰のためでもない。私自身のために。

私が嘘つきではなかったこと。あなたとの時間に偽りがなかったこと。この箱は、私が私に遺す、たったひとつの真実の証。あなたがこれを見つけなくてもいい。気づかなくてもいい。でも、この部屋に、確かに愛があったことを、私だけは忘れたくないから。


色褪せた水族館のチケット。あの日は、子供のようにはしゃぐあなたを見るのが嬉しかった。

UFOキャッチャーで取ってくれた、安物のキーホルダー。あなたがくれたものなら、何だって宝物だった。

そして、数枚のエコー写真。

『わたしたちのたからもの』

そう書き込んだ時の、胸の高鳴りを今でも覚えている。この子を愛する気持ちに、一点の曇りもなかった。あなたとの未来を、確かに夢見ていた。


ドアノブに手をかける。この扉を開ければ、もう戻れない。

崩れ落ちそうになる自分を叱咤する。そうするしかなかった。一方的で、あなたを深く傷つけるとわかっていても、もう、これしか残されていなかった。


そっと家を出る。冷たい朝の空気が、火照った頬を撫でた。

今頃、あなたは目を覚まし、私の不在に気づくだろうか。

便箋を手に取り、私の言葉に戸惑い、怒り、そして絶望するのだろうか。


私の胸の中には、あなたへの消せない想いと、罪悪感がないまぜになっている。

でも、同時に、あの息苦しい呪縛から解放されたいという、身勝手な願いも湧き上がってくる。


真実の上にしか、何も築けない。だから、私はこの方法を選んだ。


きっとあなたは、まず私を探そうとするでしょう。

でも、その前に、断ち切らなければならないものがあるはず。

私たち二人を、そして私を最も苦しめた、あの見えない鎖を。


あなたの指が、スマートフォンの画面をなぞる姿が目に浮かぶ。

その先にいるのは、きっと、あのお義母様。

あなたの声が、いつもの穏やかさを失い、震えているかもしれない。

「大事な話があるんだ。……陽菜が、いなくなった」

その一言が、これから始まる長い嵐の、始まりの合図になることを、私は遠い場所で予感している。


私の心にも、あなたの言葉、赤ん坊の寝息、そしてこれから始まるであろう嵐の音が、「残響」としていつまでも鳴り響いている。

それが、私の選んだ道の、始まりの音なのだから。


(第六話 了)

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