第6話『航平さんへ』
小説「防波堤」 第六話【最終稿】
【陽菜の胸の内:あの朝】
ごめんね、航平。ごめんね、愛しい私の赤ちゃん…。でも、こうするしかなかったの。今の私には、あなたたちを守ることも、傷だらけの自分自身を守ることも、もうできないから。どうか、強く生きて。いつか、私がなぜ去らねばならなかったのか、その意味を分かってくれる日が来ることを、遠い場所から祈っています…
陽菜が去った翌朝、世界は赤ん坊の絶叫から始まった。
「ギャアアアアアアッ!」
それは悲しみや要求を超えた、生命そのものの叫びだった。けたたましい泣き声が、陽菜の香りが消え失せた静まり返った部屋の壁を震わせ、航平の鼓膜を突き破る。絶望の淵から無理やり引きずり出された航平は、ベッドから転がり落ちるようにしてベビーベッドに駆け寄った。
「どうした、どうしたんだ…!」
汗ばんだ小さな身体、真っ赤な顔、必死に何かを訴える瞳。だが、航平にはその言語を解する術がなかった。おむつか?ミルクか?どこか痛いのか?選択肢ばかりが頭を駆け巡り、焦りだけが空転する。
【陽菜の胸の内:航平の戸惑い】
そうでしょうね。あなたは、いつだってそうだった。赤ん坊が泣けば私に助けを求め、自分は少し離れた場所から心配そうな顔をするだけ。でも…それでいいと思っていた自分も、どこかにいたのかもしれない。あなたに頼られることで、母親としての自分の存在価値を確かめていた。それが、間違いだったのね…
キッチンに立った航平は、まるで初めて見る外国語の文献を解読するかのように、粉ミルクの缶にびっしりと書かれた説明書きを睨みつけた。お湯を沸かし、目盛りを見ながら哺乳瓶に注ぎ、プラスチックの匙で慎重に粉をすくう。たったそれだけの作業が、まるで難解な化学実験のようだ。あたふたと作ったミルクは熱すぎて、慌てて流水で冷ますうちに今度はぬるくなりすぎる。
「頼むから、泣き止んでくれ…!」
その間も、赤ん坊の泣き声は少しも衰えることなく、航平のなけなしの忍耐と理性をやすりで削るように奪っていく。ようやく人肌になったミルクを飲ませ終え、慣れない手つきで背中を叩いてげっぷをさせ、説明書と格闘しながらおむつを替える頃には、航平のTシャツは吐き戻されたミルクと冷や汗でぐっしょりと濡れていた。陽菜は、これを毎日、来る日も来る日も、当たり前のようにやっていたのか。その事実に、彼は今更ながら愕然とした。
【陽菜の胸の内:届かない声】
当たり前じゃないのよ、航平。毎日、必死だった。眠れない夜、孤独な昼下がり、泣き止まないこの子を抱いて、私も一緒に泣いた日が何度あったことか。あなたには見えていなかったかもしれないけれど…赤ちゃん、ちゃんと飲めているかしら。お腹、空かせていないかしら…大丈夫、航平なら…ううん、あなたにできるかしら…不安で、胸が張り裂けそう。でも、信じるしかない。あなたが、父親になってくれることを…
その日から、航平の構築してきた日常は、音を立てて崩壊した。
会社に遅刻の連絡を入れると、電話口の上司の声には、あからさまな憐れみと隠しきれない困惑が滲んでいた。
「…奥さん、実家に帰ったのか。まあ、大変だろうが、仕事に穴だけは開けないでくれよ」
なんとか出社しても、慢性的な寝不足で鈍った頭は働かず、会議で交わされる言葉は意味をなさないノイズとなって右から左へ抜けていく。夕方、「子供の発熱」を理由に早退する航平に、同僚たちは腫れ物に触るような態度をとった。誰も航平を責めない。だが、その無言の気遣いこそが、航平を「普通の世界」から隔絶していく、目に見えない壁だった。
【陽菜の胸の内:彼の孤独】
孤独でしょう、航平。私がこの家で、たった一人で感じていた孤独を、あなたも少しは感じているの? でも、あなたの孤独と私の孤独は、きっと違う。あなたはまだ、頑張れば「普通」に戻れる可能性があるから…私は、もう戻れない場所に来てしまったの…
仕事帰りに駆け込んだスーパーの通路で、抱っこ紐の中の赤ん坊がまた火がついたように泣き出した。おむつと粉ミルクの棚の前で、航平は完全に途方に暮れる。周囲の主婦たちの「あらあら、お父さん一人で大変ねえ」という、善意の仮面を被った好奇の視線が、無数の針のように突き刺さる。航平は、自分が今まで全く無関心だった「育児」という名の異国に、ビザも地図も持たずに放り込まれた難民のようだと感じていた。
【陽菜の胸の内:見えない壁】
そう、あの視線。私も何度も感じたわ。でも、あなたは「イクメン」「大変なお父さん」だから、まだ同情的に見てもらえるでしょう? 「母親」には、もっと厳しい視線が向けられるのよ。「ちゃんと躾もできないのか」って。あなたはまだ知らない、世界のもう一つの顔…でも、その戸惑いが、その痛みが、いつか本当の理解に繋がってくれればと、願ってしまうのは私のエゴかしら…
数日が過ぎ、心身の疲労が限界に達した夜、航平は意を決して実家に電話をかけた。もう、一人では限界だった。そして何より、報告しなければならない。この、最悪の事態を。
電話口に出た母・和子の声は、いつも通り落ち着き払っていた。航平が途切れ途切れに、陽菜が出て行ったことを告げると、電話の向こうで母が息を呑むのが分かった。しかし、それは息子を案じる驚きや同情のためではなかった。一瞬の沈黙の後、放たれた声は、まるで獲物を見つけた狩人のように、勝ち誇った冷たい響きを帯びていた。
「……だから、言ったでしょう」
「やっぱり、そういう女だったのよ。どこの馬の骨とも知れない男の子をあなたに押し付けて、都合が悪くなったら赤ん坊ごと逃げ出すなんて。航平、あなたの目は節穴よ」
【陽菜の胸の内:義母の言葉、そして航平は…】
やっぱり、お義母さんはそう言うのね。分かっていたわ。あの人にとっては、私はいつまで経っても「そういう女」。航平…あなたも、心のどこかで、そう思っているの? 私を、信じてはくれないの…? あなたの口からその言葉を聞いたら、私は本当に壊れてしまう…
航平は、言葉を失った。想像はしていた。だが、これほどまでに歓喜に満ちた非難を浴びせられるとは思わなかった。母にとって、陽菜の失踪は悲劇ではなく、自分の正しさが証明された祝祭なのだ。
「それで、その子は、どうしているの? まさか、あなたが一人で見ているわけじゃないでしょうね。男手ひとつで、そんなことできるはずがないわ。明日、すぐに迎えに行くから。高橋家の血は入っていないかもしれないけれど、一度は縁ができた子よ。うちで引き取って、まともに育ててあげる」
その言葉を聞いた瞬間、航平の中で何かが音を立てて切れた。母は、陽菜がいなくなったことを悲しむどころか、息子と孫(かもしれない存在)を完全に自分の支配下に置ける好機としか捉えていない。この人は、いつだってそうだ。善意という名の支配欲で、他人の人生をコントロールしようとする。
「……来るな」
「なんですって?」
「来るなと言ったんだ! この子は俺の子だ。陽菜がいなくても、俺が育てる!」
自分でも驚くほどの、腹の底から絞り出した声が出た。
「あんたのせいだ。あんたが陽菜を追い詰めたんだ。陽菜は……陽菜は、そんな女じゃない!」
【陽菜の胸の内:航平の叫び】
航平…! あなたが…お義母さんにあんな風に…。信じられない…。私のことを…「そんな女じゃない」って…? 遅い…遅すぎるわよ、航平。私の心はもう、あんなにズタズタに引き裂かれてしまったのに。でも…それでも…凍てついていたはずの胸の奥が、ほんの少しだけ、温かくなった気がしたのは、どうしてかしら…
失ってから初めて、心の底からそう叫んでいた。母が何か言い返してくるのを待たず、航平は一方的に電話を切った。受話器を握る手が、怒りでわなわなと震えていた。これは、母の支配に対する、航平の生まれて初めての明確な反逆だった。
陽菜は俺が探す。この子も、俺が守る。
その決意は、もはや「防波堤」などという感傷的な虚像ではなかった。それは、傷つけた人間への贖罪であり、生きるための、最低限の義務だった。
【陽菜の胸の内:彼の決意、私の逃避行】
あなたのその決意が、本物でありますように。でも、ごめんなさい。今の私は、まだあなたの元へは帰れない。私に付きまとう過去の影が、あなたや、あの子を巻き込むわけにはいかないの。この問題は、私一人で決着をつけなければ…
だが、どこから探せばいい? 手がかりは、何もない。一つだけ、まだ試していない方法があった。
航平はスマートフォンの連絡先を開き、震える指で一つの名前をタップした。
――陽菜の実家。
無機質なコール音が、やけに長く感じられた。数回のコールの後、「はい、小林です」という、記憶にある陽菜の母親の穏やかな声が聞こえた。航平は一度深く息を吸い込み、自分の身元を明かし、努めて冷静な声を装って尋ねた。
「お義母さん、夜分に申し訳ありません。航平です。あの、陽菜が、そちらに帰ったりしていませんでしょうか…?」
【陽菜の胸の内:実家への電話】
やめて、航平…! 実家にだけは…お母さんには、もうこれ以上、心配かけたくないのに…! それに…もし、お母さんが何かを察してしまったら…あの人のことを…あなたの耳に入れてしまったら…
電話の向こうで、陽菜の母親が息を呑む気配がした。
「……まあ。陽菜が? いいえ、こちらには来ていませんけど……航平さんと、何かあったの?」
「いえ、それが……大したことではないんですが、少し連絡が取れなくて」
言葉を濁す航平に、彼女の声が僅かに強張った。そして、返ってきたのは、予想だにしなかった言葉だった。
「……もしかして、航平さん。陽菜から、何も聞いていませんでしたか? 大学時代の……あの人のことを」
【陽菜の胸の内:ついに…】
ああ…やっぱり。お母さん…。とうとう、航平に…。もう、隠し通せないのね。私がずっと蓋をして、鍵をかけて、心の奥底に沈めていたはずの、あの忌まわしい過去が、静かに暮らそうとしていた私たちを、飲み込もうとしている…航平、あなたはどうするの? 私の過去を知っても、それでもあなたは、私を信じてくれるの…?
あの人?
航平の知らない、誰か。
陽菜の過去に存在する、名前のない男。
母が言っていた「カフェで会っていた男」の姿が、陽菜の母親の言葉と重なり、航平の頭の中で不吉で禍々しい像を結んだ。
ミステリーの扉が、今、錆びついた音を立てながら、ゆっくりと開かれようとしていた。
【陽菜の胸の内:開かれる扉】
その扉は、本当は開けてはいけなかったのかもしれない。でも、もう止まらない。運命の歯車が、また回り始めてしまった…どうか、誰もこれ以上、傷つきませんように…
(第六話 了)
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