第5話「わたしあなたのおもうような女じゃない」



小説「防波堤」 第五話


夜明け前の空気は、いつもより冷たく、重く感じられた。窓ガラスを伝う水滴のように、じっとりとした湿気が肌にまとわりつく。俺、高橋航平は、まるで水底から引き上げられたように、唐突に意識の浮上を感じて目を覚ました。時計のデジタル表示が示すのは、四時半。街灯の白々とした光がカーテンの隙間から細い帯となって差し込み、部屋の闇に慣れた目に突き刺さる。


隣で眠っているはずの陽菜の気配がない。いつもなら、俺のすぐそばで穏やかな寝息を立てているはずなのに。手を伸ばすと、そこにあったのは冷えかけたシーツの感触だけだった。まだ微かに、陽菜が使っているボディクリームの甘い香りと、彼女自身の温もりが残っているような気がしたが、それはきっと、そうであってほしいと願う俺の願望が生んだ幻なのだろう。


先に起きて、赤ん坊の世話をしているのかもしれない。この数週間、俺たちの間で言葉が凍りついてからも、陽菜は母親としての役割を黙々と果たしていた。軋む身体を起こし、リビングへ向かう。短い廊下を歩くだけで、家の空気がいつもと違うことに気づいた。それは温度や湿度の問題ではない。まるで、一枚の薄いガラス板のように、張り詰めた静寂が空間を支配していた。


リビングのドアを開けると、その予感は確信に変わった。部屋の中央に置かれたベビーベッドでは、娘がすやすやと穏やかな寝息を立てている。その小さな胸が規則正しく上下する様だけが、この家にかろうじて生命の灯をともしていた。微かにミルクの匂いが漂っている。哺乳瓶が洗浄カゴに伏せてあったから、授乳は済ませた後なのだろう。だが、そこに陽菜の姿はなかった。キッチンにも、洗面所にも、トイレにも。


胸騒ぎが、冷たい手で心臓を鷲掴みにするような感覚へと変わる。それはもはや予感ではない。避けられない現実がすぐそこまで迫っているという、残酷な確信だった。


俺は足早に寝室へ戻った。クローゼットの扉に手をかける。いつもなら、扉を開けると、陽菜のシャンプーの甘い、どこか柑橘系を思わせる香りがふわりと広がった。だが今、その香りは心なしか薄れ、代わりに防虫剤の無機質な匂いが鼻につく。そして、俺は気づいてしまった。いつもハンガーラックの右端に掛かっていた、彼女の普段使いのくたびれたショルダーバッグがない。いくつかの衣類も――そうだ、彼女が実家から大切に持ってきた、柔らかなウールのカーディガン。初めてのデートに着てきた、シンプルなネイビーのワンピース。それらが、ごっそりと姿を消していた。


まさか――。


その言葉が、頭の中で警鐘のように鳴り響く。血の気が引いていくのが分かった。指先から急速に温度が失われていく。震える足でリビングに戻ると、ローテーブルの上に、見慣れないものが一つ、ぽつんと置かれていた。まるで、舞台上の主役のように、そこだけスポットライトが当たっているかのように。


一枚の、淡いクリーム色の便箋。

陽菜が、友人への手紙を書く時によく使っていたものだ。

俺は、まるで宣告を受ける罪人のように、その手紙へと歩み寄った。呼吸が浅くなる。これから読む言葉が、俺の日常を根底から破壊するだろうことを、身体のすべてが理解していた。


震える手で、俺はそれを手に取った。

そこには、見慣れた陽菜の、丸みを帯びた少し右肩上がりの文字が並んでいた。いつもより少しだけ、インクが滲んでいるように見えたのは、気のせいだろうか。


『航平さんへ


短い間だったけれど、ありがとうございました。

もう、ここにはいられません。


わたしは、あなたの思うような女ではありません。


さようなら。


陽菜より』


手紙は、あまりにも短く、そしてあまりにも多くのことを物語っていた。刃物のように鋭利な言葉が、俺の胸を深々と抉った。


「あなたの思うような女ではありません」……どういう意味だ。俺が疑ったからか?お前は汚れてない、そう言いたいのか?…違う、そうじゃない。「都合のいい女じゃない」だと?俺が、お前を理想の型にはめようとしたからか?…いや、母さんだ。母さんがお前を追い詰めたんだ。違う、俺だ。俺が信じなかったからだ!あの時、手を握ってやれば…!


だが、心の奥で卑しい声がする。『そうだ、何か隠していたんだ。だから逃げた。赤ん坊を置いて。俺は悪くない。悪いのは黙っていたお前だ』。そうだ、そうでなければ、俺は…。この自己正当化が、傷つき、砕け散りそうになる俺のプライドを守る唯一の盾だった。そうでなければ、自分がおかした過ちの重さに耐えられそうもなかった。


「……陽菜……」


絞り出した声は、静まり返った部屋に虚しく溶けた。返事はない。ただ、ベビーベッドからは、何も知らずに穏やかな寝息を立てる赤ん坊の、小さな呼吸音だけが聞こえてくる。この温かい命をここに残して、陽菜は一体どこへ行ってしまったというのだろう。実家だろうか。それとも、俺の知らない、全く別の場所へ…?


ふと、テレビボードの上の小物入れに目がいった。俺が初めての給料でプレゼントした、華奢なネックレスが、小さなベルベットの箱に収まったままだ。その隣には、二人で海へ旅行に行った時の写真立て。ぎこちなく笑う俺と、どこか憂いを帯びた笑顔の陽菜が写っている。思い出は、置いていったのか。それとも、これらはもう、彼女にとっては何の意味も持たない、ただのガラクタになってしまったのか。


はっとして、俺はリビングのキャビネットの引き出しを乱暴に開けた。保険証や診察券などをまとめているファイルケース。その中に、あるはずのものがない。


ピンク色の、母子手帳が、なかった。

持ち去られていた。


その事実に、俺はわずかな安堵と、それ以上の、底なしの孤独を感じた。彼女は、母親であることを捨ててはいない。赤ん坊との繋がりを、断ち切ってはいないのだ。だが、それは同時に、俺が完全に「蚊帳の外」に置かれたことを意味していた。父親である俺は、陽菜とこの子の物語から、決定的に排除されたのだ。


「あなたの思うような女ではありません」――その言葉の本当の意味を、俺はもう、彼女自身の口から聞くことはできないのかもしれない。ただ、陽菜がもうここにはいないという事実だけが、冷たく重い現実として、俺の目の前に横たわっていた。彼女の瞳の奥に常に宿っていた深い影は、俺への、そしてこの家そのものへの、拒絶の色だったのだ。


俺が守ろうとしていた「家族」という城は、内側から、最も静かな裏切りによって崩されていた。いや、最初からそんな城はどこにもなく、俺はただ瓦礫の上で王様を気取っていただけだったのかもしれない。その虚像を守るために、一番大切なものを、この手で壊してしまったのだ。


陽菜の残した置き手紙を握りしめながら、俺は深い絶望の底へと沈んでいくのを感じていた。

これから、どうすればいい?

陽一の実家に電話するのか? なんて言えばいい?

母に、この事態をどう伝えればいい? あの人は、きっと鬼の首を取ったように陽菜を責め、そして俺の不甲斐なさを詰るだろう。

そして、この小さな赤ん坊を――俺は、たった一人で育てていけるのだろうか? この温もりを、守り抜くことができるのだろうか?


答えの出ない問いだけが、静まり返った部屋に虚しく響く。

その時だった。


「……ふぇ……」


ベビーベッドから、か細い声が漏れた。新しい一日が、この小さな命の目覚めとともに、容赦なく始まろうとしている。

窓の外が、少しずつ白み始めていた。街が目を覚ます時間。

だが、俺の世界は、終わってしまったかのように感じられた。


(第五話 了)

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