第4話「無言劇」



小説「防波堤」 第四話 (


母・和子が嵐のように去った後、アパートの部屋には鉛を溶かし込んだような沈黙が満ちていた。高橋航平は、リビングのソファに深く沈み込み、ただ壁の一点を見つめていた。テーブルの上には、陽菜が今朝準備していったのだろう、夕食の材料が入ったスーパーの袋が手付かずで置かれている。その光景が、これから失われるであろう「日常」の残骸のように見えた。


和子が残していった言葉の数々――妊娠周期のズレ、血液型不適合、男との密会――それらが、まるで呪文のように航平の頭の中で反響し、彼の思考をゆっくりと麻痺させていく。俺は被害者だ。騙され、裏切られた夫なのだ。そのはずなのに、胸の奥には罪悪感に似た冷たい塊が居座っていた。


やがて、玄関のドアが開く音がした。陽菜が、赤ん坊を抱いて帰ってきた。

「ただいまー。ごめんね、思ったより混んでて」

その声には、先ほどまでの電話越しの不安げな色はなく、ほんのりと明るさが戻っている。しかし、リビングに入り、ソファに石のように座る航平の尋常でない雰囲気に気づいた瞬間、その表情は再び凍りついた。


「航平……やっぱり、何かあったのね?」


陽菜の声は、か細く震えていた。航平は、ゆっくりと顔を上げる。どんな言葉で切り出すべきか、何時間も考えていたはずなのに、いざ陽菜を目の前にすると、用意していた言葉は全て意味を失っていた。


航平は、何も言わずに立ち上がり、陽菜のそばへ歩み寄った。そして、陽菜が抱いている赤ん坊の顔を、じっと見つめた。すると、赤ん坊がふと薄目を開け、声もなくじっと航平の顔を見つめ返してきた。その黒曜石のような澄んだ瞳に、疑心暗鬼に歪んだ航平の醜い顔が映っている。俺はこの子の前で、一体何をしようとしているんだ? 一瞬だけ、正気が戻りかけた。だが、それも束の間、心の奥で「お前は誰の子だ?」という声が響き、航平のわずかな良心を打ち消した。


陽菜は、航平の異様な視線に耐えかねたように、一歩後ずさりながら俯いた。その肩が、微かに震えている。


長い、耐え難い沈黙が続いた。時計の秒針の音だけが、やけに大きく部屋に響き、二人の間に流れる時間を残酷に刻んでいく。


航平は、ようやく重い口を開いた。出てきた言葉は、あれほど考えていた詰問や怒りの言葉ではなかった。彼の声は、自分でも驚くほど低く、全ての感情が押し殺されていた。


「……陽菜」


陽菜は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は、何かを恐れるように揺れ、潤んでいる。しかし、彼女は何も言わなかった。ただ、じっと航平の次の言葉を待っている。


航平は、和子から聞いた「事実」を、一つひとつ、淡々と陽菜に告げた。まるで、出来の悪い芝居のセリフを読む役者のように。


「母さんが、見たそうだ。お前が、知らない男と会っているのを」


その言葉が出た瞬間、陽菜の瞳の奥で何かが凍りついたのを航平は見た。それは恐怖ではなく、むしろ冷え冷えとした軽蔑に近い光だった。だが、それも一瞬。すぐに彼女の表情は能面のように無表情に戻り、航平の視線をただまっすぐに受け止めていた。


「妊娠の時期も、おかしいらしいな。少し、早すぎるそうだ」

陽菜は、ただ静かに息を吸い込んだ。その表情からは、感情を読み取ることは難しい。

「……そして、血液型。俺はA型で、お前はAB型だ。この子が、O型なのは……どういうことなんだ?」


感情を込めず、他人事のように話す航平の声が、部屋の冷たい空気の中で空虚に響いた。


陽菜は、航平の言葉を、ただ黙って聞いていた。表情を変えることも、涙を流すことも、反論することもない。その沈黙は、肯定でも否定でもなかった。それは、まるで言葉にすれば全てが壊れてしまうことを知っているかのような、悲しい覚悟に満ちた沈黙だった。彼女は、何かを、あるいは誰かを、自らの沈黙によって守ろうとしている。そうとしか思えなかった。


一通り話し終えた後、航平は最後の問いを投げかけた。

「……何か、言うことはないのか」


陽菜は、ゆっくりと首を横に振った。やはり、何も語らない。その姿は、まるで全てを諦めた聖女のようにも、あるいは、言葉では言い表せないほどの深い絶望に打ちひしがれた罪人のようにも見えた。


航平は、そんな陽菜の姿を見て、胸の奥で何かがプツリと切れるのを感じた。怒りでもなく、悲しみでもない、もっと虚しい、どうしようもない感情だった。なぜ何も言わない。なぜ戦わない。なぜ、俺を安心させてくれない。


「……そうか」


航平は、それだけ言うと、再び赤ん坊に視線を落とした。この沈黙に耐えられなかった。自分が、この状況の主導権を握らなければ、今にも崩れてしまいそうだった。


「……じゃあ、俺が父親になる。俺がお前の、この子の父親になってやる。……それでいいんだろ?」


それは寛大な許しなどではなかった。陽菜に答えを強要し、自分の存在を無理やり肯定させるための、彼の最後の防衛線だった。その言葉に、陽菜の肩が、さらに大きく震えた。そして、赤ん坊を抱く腕に、その小さな体を守るように、ぎゅっと力が込められたのが分かった。


それでも彼女は、最後まで何も言わなかった。その沈黙は、航平にとって永遠の謎となり、彼らの間に決して埋まらない溝を刻み込んだ。


二人の間に流れる沈黙は、もはやどんな言葉よりも雄弁に、関係の終わりを告げていた。


航平は、陽菜の沈黙という見えない壁の前に、ただ立ち尽くす。テーブルの上に置かれたスーパーの袋。その中に眠る食材が、明日の食卓に並ぶことはもうないだろう。


かつて二人で築こうとした「防波堤」は、こうして音もなく崩れ去った。その向こうから、凪いだ海面を叩く、嵐の最初の雨粒が落ちてくる気配がした。この時の彼は、その嵐が、他ならぬ自分の母親によってもたらされることなど、知る由もなかった。


(第四話 了)

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