第3話―疑いが愛を殺す。俺は監視者になった―



小説「防波堤」 第四話 (視聴アップ特化・最終進化版)


インターネットで注文したDNA鑑定キットは、数日後、誰にも見られないよう細心の注意を払って受け取った。簡素な箱の中には、説明書と、綿棒のような検体採取用のブラシが数本。それが、航平にとっては家族の未来を左右する審判の道具のように見えた。


計画の実行は、静かな夜だった。陽菜が疲れ果てて眠りについた後、航平は赤ん坊が眠るベビーベッドに、音もなく近づいた。その無垢な寝顔を見ると、一瞬、心が鈍く痛む。俺は、この小さな命に対して、取り返しのつかない冒涜をしようとしているのではないか。だが、脳裏にちらつくのは、母が語った「知らない男と笑い合う陽菜の顔」と、鑑定結果に印字された冷たい「O型」の文字。迷いは、すぐに黒い決意に塗りつぶされた。


震える指で、そっと赤ん坊の口にブラシを差し込む。頬の内側を数回こするだけの、簡単な作業。だが、航平にはまるで自分の魂を削り取っているかのような錯覚があった。次に、自分の頬からも検体を採取する。これで、役者は揃った。あとは、この検体を送り返し、最後の審判を待つだけだ。


翌朝、航平は出勤途中のポストに、厳重に封をした返送用封筒を投函した。カタン、という軽い音が、まるで断頭台の刃が落ちる音のように、彼の耳には重く響いた。もう、後戻りはできない。


その頃、陽菜もまた、静かに行動を開始していた。

航平が毎晩のようにリビングでパソコンに向かっていることには、とっくに気づいていた。彼がシャワーを浴びている隙に、検索履歴を覗き見る。そこに並んでいたのは、「cis-AB型 確率」「血液型 ありえない」「DNA鑑定 方法 最短」といった、胸を抉るような単語の羅列だった。


ああ、やっぱり。

陽菜は、崩れ落ちそうになる体を必死で支えた。涙が溢れそうになるのを、奥歯を噛み締めてこらえる。航平が何を疑っているのか、その理由が何なのか、全てが線で繋がった。産後すぐの、母・和子との面会。あの日から、全てがおかしくなったのだ。航平の苦悩も、彼の変わり果てた態度も、全てはあの人の仕業なのだと。


怒りが、悲しみを追い越していく。だが、ここで泣き崩れている時間はない。夫は、実の母親に唆され、今まさに家族を壊す崖っぷちに立たされている。彼を救い出せるのは、自分しかいない。


陽菜は、意を決してスマートフォンを手に取った。そして、ここ数週間、ずっと連絡を取るのを躊躇っていた番号をタップする。数回のコールの後、懐かしい声が聞こえた。


「もしもし、陽菜か? どうした、急に」

「……お兄ちゃん。お願いがあるの。力を、貸してほしい」


兄、宮田彰(みやたあきら)は、法医学を専攻する大学院生だった。誰よりも冷静で、怜悧な頭脳を持つ兄ならば、この状況を打開する知恵を貸してくれるはずだ。陽菜は震える声で、事の経緯を全て話した。


数日後、約束の場所である駅前のカフェに、彰は現れた。陽菜の話を聞き終えた彼は、しばらく難しい顔で腕を組んでいたが、やがて静かに口を開いた。

「……なるほどな。話は分かった。義母さんの言動は、あまりに悪質だ。だが、航平くんがそこまで追い詰められているのなら、感情的に反論しても火に油を注ぐだけだ。必要なのは、感情論じゃない。覆すことのできない、絶対的な『事実』だ」

彰の目は、研究者のそれだった。

「陽菜、お前の血液型は、本当にただのAB型か? 親父もお袋もA型とB型だ。AB型が生まれるのは普通だが、念のため、昔の母子手帳とか、学校の健康診断の記録、何か残ってないか?」


彰の言葉に、陽菜はハッとした。言われるがまま実家に連絡し、母親に自分の母子手帳を探してもらう。電話口で読み上げられたそこには、陽菜の知らなかった事実が記されていた。

「血液型:AB型(亜型)」


「亜型……!」彰の声色が変わる。「それだ。おそらく、お前のAB型は、通常のAB型とは違う。特殊な遺伝子を持つ『cis-AB型』の可能性が高い。それなら、A型の遺伝子情報と、O型の遺伝子情報を両方持っていることになる。航平くんがA型なら、お前が持つO型の遺伝子と組み合わさって、O型の子供が生まれることは、理論上、十分にあり得る」


目の前が、急に開けた気がした。彰は続ける。

「だが、これもまだ仮説だ。これを証明するには、お前自身の精密な血液検査と、遺伝子レベルでの解析が必要になる。そして……もう一つ、決定的な証拠がいる」


彰はそこで言葉を区切り、陽菜の目を真っ直ぐに見据えた。

「義母さんが言っていたという『陽菜が知らない男と会っていた』という話。あれは、いつ、どこのカフェだか分かるか?」

「ええ、多分……駅前の、あのカフェだと思う」

「……心当たりは、あるんだな?」

陽菜は、静かに、しかし力強く頷いた。


鑑定結果が出るまでの約一週間は、航平にとって地獄だった。陽菜の顔をまともに見られない。赤ん坊の泣き声が、まるで自分を責めているように聞こえる。食事の味もせず、夜もほとんど眠れなかった。そして、ついにその日が来た。スマートフォンに、鑑定機関からのメールが届く。


「鑑定結果のご報告」


震える指で、添付ファイルを開く。心臓が、破裂しそうなほど脈打っていた。

画面をスクロールしていくと、結論が記された項目があった。そこに書かれていたのは――


【父権肯定確率:99.99%】


「……え?」

声が出た。何度も、何度も画面を見返す。99.99%。それは、生物学上の親子関係があることを、ほぼ完全に証明する数字だった。

嘘だ。何かの間違いじゃないのか。だって、血液型は……。


混乱する航平の頭に、医師の言葉が蘇る。「天文学的なほど低い確率」「cis-AB型」。あの時、聞き流した言葉が、今になって雷鳴のように頭の中で響き渡った。

俺は、なんてことを……。


絶望とは違う、もっと冷たい何かが、背筋を凍らせていく。安堵ではない。自分の愚かさ、浅はかさに対する、底なしの自己嫌悪と恐怖だった。俺は、陽菜を、この子を、疑った。母の言葉だけを信じ、最も信じるべき家族を裏切ったのだ。


その時だった。リビングのドアが静かに開いた。そこに立っていたのは、陽菜だった。その手には一枚の紙が握られ、隣には、見知らぬ男が立っていた。航平が今まで見たこともないような、冷たく、そして強い意志を宿した瞳で、陽菜は言った。


「航平。あなたと、話があるの」


その声は、いつもよりずっと低く、静かだった。だが、その静けさこそが、これから始まる嵐の激しさを物語っていた。航平の足元から、ゆっくりと、しかし確実に、世界が崩れ始めていた。


(第四話 了)

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