第2話ありえない血液型。妻の裏切りか、天文学的奇跡か



小説「防波堤」 第二話


産院での母・和子の一言は、目に見えない楔(くさび)となって、高橋航平の心に深く打ち込まれていた。陽菜は無事に退院し、小さな命はアパートの小さな寝室に迎えられた。ベビーベッドを組み立て、おむつを替え、慣れない手つきで沐浴をさせる。かつて夢にまで見た、温かく満ち足りたはずの新生活。だが、その全ての光景が、和子のあの日の言葉によって、薄気味悪い影に覆われているようだった。


「だって、母さんは……見てしまったんだもの」


呪いのように、その言葉が航平の頭の中で繰り返される。何を「見てしまった」のか。何度問い詰めても、和子は口元に薄い笑みを浮かべるだけだった。それは全てを見通した預言者のようでもあり、これから始まる悲劇を密かに楽しんでいるかのようでもあった。その曖昧さが航平の苛立ちを煽り、心の奥底に植え付けられた疑念の種に、じわじわと毒の水を注いでいる。


陽菜は、そんな航平の内心の嵐に気づくはずもなく、聖母のように穏やかな顔で赤ん坊に乳を含ませていた。その光景は、一枚の完璧な絵画のようだ。だが、航平はその額縁の外から、ガラス一枚を隔てて眺めているような疎外感を覚えていた。赤ん坊が航平の指を小さな手で握りしめる。その温もりに幸福を感じる一方で、胸の奥が冷たく疼いた。この幸せが、全て偽りだとしたら?


そんなある日の午後。(ドアチャイムの音)その乾いた音は、平和な日常に突き刺さる警報のように響いた。和子が何の連絡もなしに高橋家へやってきたのだ。手土産の高級そうな和菓子をテーブルに置き、さも当然のようにリビングのソファに腰を下ろす。陽菜が赤ん坊の世話で寝室にいる隙を見計らい、和子は航平を手招きし、声を潜めて切り出した。その瞳には、何かを確信したような強い光が宿っていた。


「航平、ちょっといいかしら。あの子の……妊娠周期のことなんだけどね」


航平の背筋を、冷たい蛇のような嫌な予感が這い上がった。


「陽菜さんから聞いた話と、あの子の出生体重、それに生まれた時期。どうも計算が合わないのよ。少し……早すぎるんじゃないかしら」


和子の目は、獲物を見つけた鷹のように鋭く光っていた。航平は言葉に詰まる。確かに、陽菜も予定日より少し早く生まれたとは言っていたが、そんなことはよくある話だと思っていた。


「そんなの、多少のズレはあるだろ……」


「多少、かしらねぇ」和子はわざとらしく溜息をつくと、航平の反論を断ち切るように、決定的な一言を突きつけてきた。「……やっぱり、どこかおかしいのよ」


その言葉は、冷水を浴びせられたように航平の思考を凍りつかせた。「おかしい」――その一言が、和子の中の全ての疑念が一本の線で繋がったことを物語っていた。そして、ついに最後の砦を崩す提案を口にしたのだ。


「……念のため、血液型だけでも調べてみたらどうかしら。それで白黒はっきりすれば、あなたもスッキリするでしょう?」


航平は抵抗した。陽菜を疑うなど、断じてしたくない。俺が築くと誓った「防波堤」は、彼女を守るためのものではなかったのか。しかし、陽菜を信じる心と、和子が植え付けた毒のような疑念が、航平の中で激しくせめぎ合っていた。この息苦しさから逃れたい。その安易な誘惑に、彼は負けた。陽菜への裏切りであり、自分自身の弱さの証明だと知りながら、頷いてしまった。


「健康診断の一環で、会社から指示があってさ」


あまりに拙い嘘だった。陽菜は訝しげに航平の顔を見つめた。その瞳の奥が一瞬、何かを探るように鋭く光り、すぐにふっと和らいだ。彼の必死の形相の裏に、言葉にできない何かを感じ取ったのだろう。彼女は何も聞かず、ただ黙って頷いた。その無言の信頼が、罪悪感となって航平の胸に突き刺さった。


数日後、結果が出た。航平は会社を半休し、一人で病院へ向かった。診察室の椅子は、被告人席のように冷たく感じられた。


「高橋さん、こちらが結果になります」


医師が差し出した一枚の紙。そこに並んだ無機質な文字が、航平の目に飛び込んできた。

高橋 航平:A型

高橋 陽菜:AB型

そして、赤ん坊の名が記された欄の横には――


(効果音:キーンという耳鳴り)


――O型、とあった。


その一文字が、網膜に焼き付く。世界から色が消え、音も消え、ただその『O』という黒い穴だけが、俺の未来を吸い込んでいくようだった。

中学生の理科の授業で習った、メンデルの法則。A型とAB型の両親から、O型の子供は生まれない。それが、航平の世界を構成していた、疑いようのない「常識」だった。


「……先生、これって……」絞り出した声は、自分のものではないように震えていた。


医師は、航平の表情から全てを察したように、一度静かに目を伏せ、そして彼を見据えて口を開いた。

「……落ち着いて聞いてください。まず、教科書的な知識でお話しすると、A型のお父様とAB型のお母様からO型のお子さんが生まれるというのは、通常の遺伝パターンでは考えにくい、というのは事実です」


(効果音:心臓の鼓動が大きくなる)


絶望が、冷たい手で航平の心臓を鷲掴みにする。やはり、母の言った通りだったのか。陽菜が、俺を……?


しかし、医師は言葉を続けた。

「ですが、高橋さん。医学に絶対はありません。血液型の遺伝には、ごく稀なケースとして、通常のパターンから外れる『亜型』や、一つの遺伝子でAとB両方の性質を発現させる『cis-AB(シス・エービー)型』といった特殊な遺伝子型が存在します。これらは通常の検査では判別がつきにくいのです」


医師は、一枚の遺伝子配合表を指差した。

「この表にある組み合わせは、あくまで一般的な確率論です。しかし、先ほど申し上げたような特殊なケースを考慮に入れれば、確率は非常に、本当に天文学的なほど低いですが、O型のお子さんが生まれる可能性がゼロとは言い切れない」


「……ゼロじゃ、ない……?」


「はい。そして誤解しないでください。私は今、この子があなた方の子供である可能性についてお話ししているのです」

医師はそこで言葉を区切り、航身の顔をじっと見つめた。

「……医学的には稀なケースです。しかし、高橋さん」医師は、私の目を真っ直ぐに見据えた。「あなたが今、その腕に抱いているのは、『天文学的な確率』ですか? それとも、あなたの『息子』ですか? 何よりも大切なのは、こうして無事に新しい命がこの世に生まれたという事実です。その命の誕生を、まず心から喜んであげること。それが、親御さんの最初の役割ではないでしょうか」


医師の言葉が、わずかに航平の心に引っかかった。それは、絶望の暗闇に垂らされた一本の細い蜘蛛の糸のようにも感じられた。だが、同時に「天文学的なほど低い確率」という現実が、その糸を今にも断ち切ろうとしている。


病院を出た航平は、目的もなく街を歩いた。雑踏の音が遠い。和子の「やっぱり、おかしいのよ」という声が、まるで勝利宣言のように耳元で響いていた。そして、医師の「確率は非常に低い」という言葉が、死刑宣告のように彼の未来を閉ざそうとしている。


一体、何を信じればいい? 誰を信じればいい?

陽菜のあの穏やかな笑顔か、それともこの一枚の紙に印字された冷たい『事実』か。


家路につく足取りは、まるで足枷を付けられた罪人のように重かった。帰ったら、陽菜の顔をまっすぐに見ることができるだろうか。あの無垢な寝顔の赤ん坊を、心から抱きしめることができるだろうか。


選択肢は二つ。

天文学的な確率の『奇跡』を信じて陽菜と息子を守るか。

それとも、冷たい『事実』を受け入れて、この偽りの家族を終わらせるか。


俺の『防波堤』は、一体誰を、何から守るためにあるんだ……?


(第二話 了)

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