防波堤
志乃原七海
第1話:―母が放った呪いの言葉「…似てないよ」―
---
### **「防波堤」第一話**
(※静寂。赤ん坊のかすかな寝息)
母の冷たい確信に満ちた声が、祝福に満ちていたはずの部屋を、絶対零度の深淵に変えた。
「……本当に、航平の子なの?」
頭蓋の内側で、俺の信じてきた世界がガラス細工のように砕け散る音がした。冗談であってくれ。悪夢なら、今すぐ心臓を抉り出してでも覚めてくれ。臓腑を焼くような怒りが込み上げる。しかし、それ以上に、母の言葉の裏に潜む、研ぎ澄まされた毒針が、俺の喉を、思考を、未来を締め付ける。
俺が、この腕で守り抜くと、神に、陽菜に、そして生まれたばかりのこの子に誓ったばかりの、俺たちの絆を。この女は、土足で踏み躙り、汚泥を塗りたくる気か。
「何言ってんだよ! 俺と陽菜の子に決まってるだろ! ずっと隣で見てたんだぞ!」
獣のような咆哮は、しかし母の氷の視線ひとつで霧散した。その目は、真実を知らない憐れな息子を嘲笑っているかのようだ。そして、死刑宣告のように、しかし何よりも甘美な囁きで、その言葉を俺の鼓膜に突き刺した。
「だって、航平。母さんは……見てしまったんだもの。**陽菜さんが、あの男のお腹の子を抱いて、笑っていたのを**」
(タイトル:「防波堤」第一話)
―数時間前。
春特有の、気怠い陽光が産院の長い廊下に墓標のような影を落としていた。消毒液の匂いに混じって、ほのかにミルクの甘ったるい香りがする。壁に掛けられた新生児たちの写真は、どれもこれも同じような、肉塊に目鼻をつけただけの醜い生き物に見えた。その一枚一枚に、数時間後、いや、もうすでに始まっている俺の新しい人生が、祝福ではなく呪いとして重なろうとしていることなど、知る由もなかった。
数時間前まで、俺、高橋航平は会社のオフィスで抜け殻になっていた。パソコンの画面に映る数字の羅列は、もはや俺の人生の無意味さを告げる暗号にしか見えない。昨夜、陽菜の陣痛が始まってから、俺の意識は携帯電話が吐き出す通知音に支配されていた。連絡が来るたびに心臓が鷲掴みにされ、胃が鉛を飲んだように重くなる。
「どうした、高橋。死人の顔色だぞ」
「いや、大丈夫…」
「大丈夫な顔じゃない。もうすぐだろ? 無理もないさ、人生の一大事だ」
温かい同僚たちの声が、遠い国の言葉のように聞こえる。上司が俺の肩を叩いた。
「高橋。もう行け。こんな所で心ここにあらずでミスされる方が迷惑だ。父親の顔してこい。後は俺たちがやっとくから!」
半ば追い出される形で、俺は席を立った。申し訳なさなど微塵もない。ただ、この地獄のような焦燥感から解放される安堵だけがあった。「生まれたら写真見せろよ!」「奥さんによろしくな!」という声援を背に、俺は産院へとひた走った。陽菜、陽菜、俺の陽菜。
そして今、俺は、我が子との対面を前に、汗で濡れた手を何度もズボンの生地で拭っている。心臓が肋骨を突き破らんばかりに暴れている。隣には、母・和子が立っていた。廊下の窓から差し込む光を背に受け、その表情は影になって窺えない。だが、その佇まいそのものが、この祝福されるべき空間に落ちた、不吉な染みのように見えた。
「航平。あなたも今日から父親なのよ。しっかりなさい」
その言葉は、激励ではなく、俺の覚悟を試すような冷たい刃の響きがあった。
妻の陽菜は、昨夜から続いた地獄の苦しみの末、夜明け前に元気な男の子を産んでくれた。汗と涙と汚物にまみれながら、それでも俺の手を握り返してくれた陽菜。産声が上がった瞬間、消耗しきった部屋の空気が震え、世界から音が消えた。陽菜、ありがとう。お前はすごい。本当に、俺には勿体ないくらい、素晴らしい女だ。
やがて看護師に呼ばれ、個室へと通された。小さなベビーベッドに眠る我が子は、想像していたよりもずっと小さく、皺くちゃで、猿のように赤黒かった。だが、それがどうした。この小さな体に、俺と陽菜の全てが凝縮されているのだ。
込み上げてくる感情に言葉が詰まる。そっと指先で頬に触れると、驚くほど柔らかく、温かい。生きている。俺の、俺たちの子が。
守らなければ。絶対に。この手で。
俺が、この子と陽菜の「防波堤」になるんだ。どんな困難からも、どんな心無い言葉からも、この新しい家族を守り抜く。
「なあ、母さん……見てくれよ。かわいいだろ、俺の子。あんたの孫だぜ!」
この感動を、少しでも分かち合いたかった。あんただって、心のどこかでは喜んでくれているはずだ。そうでなければ、人間じゃない。
しかし、母の反応は、俺のその愚かな期待を、音もなく、そして残酷に裏切った。
母は無言でベッドに歩み寄り、赤ん坊の顔を覗き込んだ。その表情に喜びの色は微塵もない。それは「見る」というより、「検分」だった。骨董品の真贋を確かめる鑑定士のように、眉、目、鼻、口元…パーツを一つ一つ分解し、記憶の中の**忌まわしい誰か**と照合している。
一瞬、その眉間に深い皺が刻まれ、憎悪に口元が歪んだ。そして、俺の顔を一瞥した。まるで、全てのピースがはまり、お前の愚かさを証明するパズルが完成したとでも言うように。
嫌な予感が、背骨を舐め上げる。産院の暖房が効きすぎているのか、いや、冷や汗が首筋を伝い、シャツを濡らしていくのが分かった。
冷たい確信に満ちた声が、静かな部屋に響いた。
「……似てないわね、あなたには」
たった一言。祝祭の鐘の音を断ち切る断頭台の刃だった。ガラスの破片を飲み込んだような痛みが、胸の奥で広がった。
「え……? な、何言ってんだよ、母さん。生まれたばかりなんだ。これからいくらでも顔は変わるだろ」
声が震えた。必死に平静を装うが、母の揺るぎない瞳が、俺の虚勢を、幸福を、まるで出来の悪い芝居でも見るかのように、嘲笑っている。
「いいえ。顔っていうのはね、生まれた瞬間が一番正直なのよ」母は静かに、だが有無を言わせぬ声で続けた。「この子の目元、鼻筋……そうね、どちらかと言えば、**あの男**にそっくりじゃない」
「あの男」? 誰のことだ。陽菜の、元カレのことか? 俺たちの結婚を最後まで邪魔し続けた、あの男か?
「……本当に、航平の子なの?」
足元から、幸福で満たされていたはずの地面が、ガラガラと崩れ落ちていく。冗談であってくれ。悪夢なら、今すぐ覚めてくれ。怒りが込み上げてくる。しかし、それ以上に、母の言葉の裏に潜む、氷の棘のようなものが、俺の喉を締め付ける。俺が、この腕で守り抜くと誓ったばかりの、俺たちの絆を。この女は、踏みにじる気か。
「何言ってんだよ! 俺と陽菜の子に決まってるだろ! ずっと隣で見てたんだぞ!」
荒くなる声を抑えられない俺を、母は射抜くような視線で黙らせる。
「あなた、昔からそう。人が良すぎて、騙されていることにも気づかないのよ」母は静かに、俺の過去の傷を抉るように言った。「…挨拶に来た陽菜さん、覚えてる? あの青ざめた顔。本当に、ただのつわりだったのかしらね。それとも、罪悪感だったんじゃないかしら」
母の言葉は、俺たちの愛の始まりを、計算された欺瞞へと貶める。そうだ、これは母の妄想だ。陽菜を憎んでいる母が、俺たちの幸せを壊したいだけなんだ。そう自分に言い聞かせなければ、立っていられそうもなかった。
「いい加減にしろよ!」
怒りに任せて叫んだ俺を、母はピシャリと黙らせた。そして、囁くように、しかし何よりも鋭い言葉を、俺の鼓膜に突き刺した。
「だって、航平。母さんは……見てしまったんだもの。**陽菜さんが、あの男のお腹の子を抱いて、笑っていたのを**」
(※長い沈黙)
全ての音が、色が、感覚が遠ざかった。ただ母の唇の動きだけが、悪夢のようにスローモーションで見える。
見てしまった? あの男の、腹の子を抱いて?
いつ? どこで?
その言葉の意味を、脳が理解することを拒絶する。希望に満ちていたはずの産院の一室が、一瞬にして疑念と憎悪が渦巻く、冷え切った密室に変わってしまった。俺が築こうと誓った「防波堤」は、まだ礎石を一つ置いたばかりだというのに、最も信頼すべきはずの人間によって、その内側から根こそぎ爆破されようとしていた。
静寂を破ったのは、ベッドの上の赤ん坊が立てた、か細い寝息だった。
すぅ…すぅ…
この世のどんな地獄も届かない、無垢な音。
だが今の俺には、その音が、俺の人生を嘲笑う悪魔の吐息にしか聞こえなかった。守るべき対象だったはずのそれが、一瞬にして、俺の全てを奪った憎悪の塊に見えた。
(第一話 了)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます