第1話:円の中心のお話

 さて、少女の世界は円であった。その円の中には語るに足る話がごまんとあるが、今回はその中の一つを試しに語ってみよう。この話は、彼女が比較的多くを経験している場所である学校、つまり活動円の中心部分で経験した話である。


 学校では、少女のことを忘れてしまう人間で溢れかえっていた。その中では、少女のことをたったの二日でぽかんと忘れてしまう能天気な人もいたし、一週間頑張って少女のことを憶えていようとする健気な人もいた。その記憶は一人ひとりがまちまちで、しかも、二回目、三回目、と記銘と忘却を繰り返す中で、記憶されている期間が必ずしも一定ではないということも少女は知っていた。それは恐らく想起される回数によっているのだろう。とにかく、少女はそんな複雑な状況に対し、一人ひとりに対処しようなどと考える筈もなく、普段は黙って学校生活を送っていた。自ら働きかけたとしても、いつ忘れられるか、それは少女の知ったことではなかった。

 朝一番の時間帯に挨拶をすると怪訝な顔をされる、という経験を少女は何度していて、その顔が酷く嫌いだった。なので、自分からは何か積極的に人にかかわることをせず、積極的に自分に話しかけてくる人には相応に対処する、しかも、話しかけてくる人の記憶に関わらず自然な応答ができるようする、ということを少女は心がけていた。そうすると、自然と丁寧語になり、礼儀正しい口調になった。礼儀正しさというものがどこに向いているのか、ということを納得できるような経験だった。そんな彼女の態度を、いつだって人は清楚だと言い、あるいは他人行儀だと言う。

 そう、孤独は綺麗なのだ。人間は、孤独を嫌い内面と呼ばれるものを吐露することによって、汚く澱んでしまう。だから少女は心の底面のほうに、滓かに残る人間の尊厳として、孤独であることの優越感を抱いていた。しかしその尊厳は吐露されるものではなく、したがって少女は綺麗でいられた。


 学校の屋上には、もう一人、孤独な少女がいた。忘れられてしまう少女とは違い、その少女にとって孤独は護るべきものだった。放課後、屋上にふと顔を出した忘れられてしまう少女は、初めまして、と挨拶した時の、孤独な少女の惨めな恐怖を目の当たりにした。それは怯えであり、危うくも屹立した孤高の立場が、岩肌の露出した山の斜面をごろごろと転がり落ちるような醜い感情であった。しかしその反応もほんの数秒で彼方へと消え去り、なおも孤独に居残ろうとする彼女の抵抗なのか、それとも孤独であることをあっさりと放棄して放心状態になったのか、孤高とは程遠い小さな背中を見せた。

 彼女はいつでも本を読んでいたので、いつも背中を丸めて俯いているような恰好だった。そんな孤独の少女に、忘れられてしまう少女は何度か話しかけたことがあったが、いつも、初めまして、と挨拶した後は、ただ二人で並んで屋上の壁にもたれていた。言葉を交わすこともなく、その不自然さもやがて自然に受け入れられ、孤独な少女は泳がせていた目を再び本の文字に落としこんで、それだけだった。


 しかし、そんな二人の間にも、ただの一回だけ、会話が成立したときがあった。それは忘れられてしまう少女が屋上に顔を出したときから既に、いや、彼女が屋上に行こうと思った時点からかもしれない、会話が成立することは必然であった。さりとて二人の会話以前に語るべき事件などある筈もなく、全ては日常の範疇にあった。だからこそ、その二人の会話も日常の範疇にあり、それ故必然性を帯びてくるのだ。

いつものように、初めまして、と話しかける、忘れられてしまう少女に対し、孤独の少女はほんの少しだけ、首を傾げた。いつもと違うその反応に、忘れられてしまう少女は吃驚した。

「初めましてって、この前もここにきたでしょ」

 本から目を上げた孤独の少女は、憮然とした顔で彼女に話しかけた。座りかけの中腰で、忘れられてしまう少女は孤独の少女の目に映る自分をじっと眺めていた。ごめんなさい、と忘れられてしまう少女が謝ると、孤独の少女は開いていた本を閉じた。

「でも、私ね、そういうの、あんまり憶えてないから、大丈夫よ。というか、喋ったの、初めてだから、やっぱり初めまして、ね」

 彼女は本を膝から下ろすと、忘れられてしまう少女に手を伸ばしてきた。しばらく少女はその手の真意を図りかねたが、手のひら側に撓む指の関節を見て、やっとその手のひらに、自分の手のひらを重ねた。

 しばらくぶりに経験した“初めて”だったので、忘れられてしまう少女はまだ心がびくついていた。

「放課後にこんなところ、来るなんて、あなたも友達って呼べる人がいないような人間ね?」

 彼女の問いかけに、少女は意図せぬ方向から働いた巨きな力のせいで強く頷いてしまった。無論、少女は頷くつもりだったのだが、抗いようのないその力が働いたことによって、忘れられてしまう少女の体の芯には、熱く滾ったものが注ぎ込まれた。

 それからしばらく、孤独の少女の独白が続いた。忘れられてしまう少女は所々で相槌を打ち、その話に聴き入っていた。なぜそこまでして名も知らぬ自分に身の上話を延々と語ることができるのだろうかと、忘れられてしまう少女には一つの大きな疑念が渦巻いていた。しかしその疑念を口にすることもできず、彼女はやはり相槌を打つだけで、孤独の少女の話を途切らせてしまうようなことは一切せずにいた。


 一度も口の聞いたことのなかった孤独の少女からは、止め処なく言葉が流れ出ていた。彼女の話に一区切りがついたのは、太陽もその半分が地平線へと姿を消した時間だった。

「さて、こんな時間になったし、もうお帰りの時間ね」

 そんな時間まで相手を付き合せたことにまったくの謝罪もなく、ただ満足げに夕陽を眺める孤独の少女は、やはり孤独だった。そして、忘れられてしまう少女はやはり、明日には忘れられてしまうのだったのだ。

「きっと、明日からはまた、本をこの時間まで一人で読んで、一人でなにを話すこともしないで、そのまま帰宅するんだ」

 それは予感? と忘れられてしまう少女は訊いてみた。

「いいえ、これは予言というものよ」

 彼女にとって、孤独とは予言だった。

 なら、私にとって、忘れられてしまうこととは何なのだろうか?

 長らく動かすことを諦めていた頭は錆びついていたので、忘れられてしまう少女は慎重に油を指しながら頭を稼動させた。遠心分離機のように、頭頂部を中心として、思考が頭蓋の外縁をぐるぐると回る。

「じゃあね、そして、さようなら。ここは私の場所だから、もうこないでね」

 眩暈がするくらいに思考していた彼女は、孤独の少女が今生の別れを告げた後もしばらく、屋上に立ち尽くしたままだった。

 そのとき彼女は明らかに、怯えていた。その怯えは、まず思考する自分自身に、そして、思考の辿り着くだろう先に、向けられていた。そしてなにより、その思考と答えを抱いたまま、屋上から立ち去ることに、少女は心底恐怖していた。そしてその姿を、誰より少女自身が醜く感じていた。

 

 “忘れられる”というただ一点が少女を記述するに値するという意味はすなわち、ここに発揮される。彼女の奥底に潜む滓かな人間の尊厳は、既に忘れられてしまう少女をして表立っていた。だからこそ、それは吐露されるべきものではなく、ただ“忘れられてしまう”という表立ったものとして存在し、それは、孤独の少女とは決定的に違う点であり、孤独の少女はだから、忘れられてしまう少女に影響した、たった一回の出会いを呼んだのだ。

 これ以降、孤独の少女が再び記述されることはない。

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