第2話:円の縁のお話
もう一つ、今度は彼女の活動円の縁で起こったお話をしてみよう。
忘れられてしまう少女は大した金銭を持っていなかった。リセットされた朝には常に、彼女の財布の中には、千円札が三枚、人目を避けるようにして折り畳まれていた。少女は折り畳まれた千円札を見て、円の中心である学校と、円の縁の風景を交互に思い起こし、しばらくした後で授業を受ける教室に向かうのだ。目覚める場所がホームルームの教室であればいいのに、と少女は毎朝思うのだが、その希望が叶えられることはなかった。彼女が目覚めるのはいつだって、空き教室の窓際の席だった。
意識がうっすらと覚醒してからおずおずと目を開ける。室内の埃を乱反射しながら窓から差し込む太陽光が目に刺さる。自然の温もり一つも感じられない木製の椅子に凭れて座っていたのだということに遅れて気づき、すっかり固まってしまった骨盤辺りの関節を束縛から解放するために、大きな伸びをひとつする。次に肩関節や股関節をぐるぐると回しながら、外の空気を吸うため窓を開け放つ。
そんなルーティンを彼女は毎朝おこなっていたが、外の自由な空気を吸うとき、ああ今日は授業をサボって学校の外にお出かけしよう、と思うことが間々あった。これから記述される日の朝も、そのようにふと思い、校門が開かれるより随分前に、少女は学校を脱出した。
金銭の問題もあり、移動手段は大抵の場合電車のみだった。自転車は持っていない、というより、持っていたのかどうかすらもはや記憶していなかった。ごく稀にバスを使うときもあったが、電車以外の移動手段はほとんどが徒歩だった。電車、といっても、新幹線が使えないことはもちろん、特急を使うと逆に距離を稼ぐことができない。結局はローカル線でゆっくりと進むのがいちばんよい方法だった。
学校の最寄り駅の前のコンビニエンスストアで昼食や夕食用の食べ物や飲み物を買って、いざ出発。その日の少女は何となく北に向かいたいと思っていた。道すがら、今日の道程をぼーっと考えていた。電車で最寄駅から都心部に出て、それから北の方向に延々と続いている路線を探して……と、ありきたりな選択肢を思い浮かべ、わくわくするわけでもなく、かといってつまらなくもない、つまりは日常の延長線上のような心持ちで最寄り駅に向かった。
彼女は特に車窓から見える風景に目を配ることもなく、ただひたすらに、そして盲目的に、ローカル線を乗り継いだ。コンビニで買った商品から引いた分の金額をすべて切符に費やし、ひたすら北へ。切符の値段の限界まで乗り継いだたら、そこからはひたすら徒歩で北へと向かった。幹線道路を探し、国道に行き着いた少女は、迷いもなく歩き続けた。その決然とした様子は、まるでその道の先に、彼女が嵌ってしまった時の迷宮からの脱出口があるのかと思うほどであった。時おり腰かけられる場所で、手提げの代わりにぶら提げているビニル袋から飲み物やら食べ物やらを取り出し、黙々と消費していたが、それは機関車が石炭を飲み込むような要領であって、味わいや風味などを楽しむような感じは欠片も感じられなかった。
歩いては休み、食べ、飲み、を何度繰り返しただろうか、太陽がようやく観念して鈍重なその身体を寝かしつけ始めるような、そんな時刻になった。ビニル袋にはもはや何も入っていない。彼女の財布にはもう、数十円ほどの金額しか残っていなかった。今日の彼女はもう破産である。しかし、それは今日の彼女の話であって、明日の彼女の話ではない。目を閉じて眠りに就いたが最後、忘れられてしまう少女の体は既に明日の教室の中にあった。あるいはそんな状態が、彼女にこのような盲目な行動を許しているのかもしれなかった。自動車の排気ガスを幾度となく灰の中に取り込み、煤で汚しきってしまっても、明日の少女には何らの影響はない。だから明日の朝、窓を開け放ち、外の自由な空気との交換の際に肺から押し出される少女の呼気には、煤のひとつも混じってはいない筈だった。滲む汗も厭わず、足の裏にできた肉刺も気にせず、少女は幾度となくトンネルを潜りながら、いつの間にか夜になっている街道を進んでいた。
しかし、それもある地点から不可能になってしまった。彼女の肉体は所詮、少女の身体であって、一日を歩き通せる強度は持っていなかった。しかし、そのこととは関係なく、物理的に歩き進めることが不可能となってしまったのである。具体的に言えば、忘れられてしまう少女は速度超過でカーブを曲がり切れなかった自動車に跳ね飛ばされ、ガードレールを突き抜け、断崖からその体を落としてしまった。
少女は体の至る所から発生する、痛覚による無言の悲鳴を脳みそに受け止めていた。いくら彼女が体を動かそうとも、どの部分をとってみても反応する気配もない。今日はここまでだったか、と忘れられてしまう少女は落胆した。まだ彼女に眠気は訪れない、というより、痛覚が嫌でも彼女の意識を覚醒させていた。口の中から鼻の奥のほうにかけて漂う血の酸い匂いに吐き気をもよおしながらも、しかし少女の意識はすでに次なる旅のことを考えていた。その考えは決して明日の少女に引き継がれることはない。しかし、今日の少女にとっては可能であるかもしれなかった。だから忘れられてしまう少女は、痛みと寒さに縮こまる脳の肌にこう語りかけた。
次は西に行こうね。そして、車に気をつけて。
まるで感動もなく、かといって嫌味なほどに普通めいた言葉でもなく、それはつまり日常的な範疇を抜け出せないでいる、ただの言葉だった。それから彼女は静かに目を閉じ、リセットのための眠りが今日のその身に訪れるのをただ待つことにした。
この話がなぜ、忘れられてしまう少女を語る中で選ばれたのか、それはさしたる意図も、根拠もない。前段の話と合わせて、彼女について綴ったこの二つの話には、もしかしたら連関があるかもしれないし、あるいはまったくないのかもしれない。
では、なぜこんなことを語ったというのだろうか。
それは既に忘れられている。
だからこそ、語るに足る物語だった。
忘れられてしまう少女の話 @rna-cargo
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