⑤ 一番遠くの一番星

初めて神宮寺エリカさんを見たのは、ひと月前の関東インカレだった。


会場は、のちにみなと駅伝予選会で訪れることになる、相模原さがみはらヒバリスタジアム。


楓は参加資格となる記録を持っておらず、この日は補助員として帯同していた。


任されたのは、一万メートル走のスタート後、第一コーナーの縁石を片付ける役目だった。本来なら、アイリスからは、二神ふたがみ蓮李れんり先輩が出場するはずだったが、直前の体調不良により欠場が決まり、楓と二人で補助員に回ることとなった。


自分が立つはずだった場所を、蓮李先輩は遠い目で見つめていた。気づいた楓は声をかけることができなかった。だが、蓮李先輩のほうが先に口を開いた。


「そうだ。来月の予選会もここだから。雰囲気に慣れておいてね」

「ええっ、そうなんですか」


楓が初仕事で緊張していると思ったのか、逆に気を遣って話しかけてくれたのだと思う。だが、こんな立派な競技場で自分が走るのかと想像すると、変な汗が出た。


屋根付きの立体スタンドと、芝生のエリアを合わせると、ぐるりと一周観客に囲まれる形になっている。こんなところに放り出されたら、ただでさえ小さい自分が余計ちっぽけに感じそうだなと思った。


(そう。自分が立ったら、きっとあの選手くらい)


スタートラインに並ぶ中で一番背の低い選手。自然と自分の姿と重なった。なんとなく、彼女をコッソリ応援することにした。


でも可哀想に。スタートしたらすぐに埋もれちゃいそうだ。なにしろ、あの中でひときわ小さいんだもの。


レースが始まると、その予想はいとも簡単に裏切られた。号砲と同時に、その選手は先頭に飛び出していったのだ。


(速い……!)


楓は一瞬で釘付けになった。夢中で彼女の軌跡を追ってしまって、縁石の片付けを忘れそうになるほどだった。


動きに無駄がない。力強いのに、力任せではない。他の選手がどんどん引き離されていく。二周目までには、第二集団との差をさらに大きく広げていた。


一度、蓮李先輩に名前を尋ねてみようとした。だが、楓はすぐにわかってしまった。


フットラボで、マイさんから聞いていた。楓と同じシルフィードを履く、もう一人のランナー。


——神宮寺エリカ。


「凄いでしょう? あれが神宮寺エリカ。今、一番強い選手だよ」


蓮李先輩がそう告げて、背筋が震えた。履いているフットギアなど、ここからでは判別できなかった。それでもわかってしまった。それはある種の予感や閃きで、言葉では説明しようがないものだった。


エリカさんは一度も後ろを振り返らなかった。誰の追撃も許さず、全員を周回遅れにし、どこか余力を残したようなポーズと涼しい顔で、そのままフィニッシュしてしまった。


興奮が止まらなかった。あの小さな体の、一体どこに、そんなパワーが隠れているのか。


清く、美しく、速い。


何も恐れず前だけを見ていた彼女の走りが、目に焼きついて離れない。体型は似ていても、自分とは全然違う。


(どんな気持ちなんだろうか。あんなふうに走れたら)


後日、力を持て余したようなゴールポーズの意味が明らかになった。エリカさんは、大会最終日の五千メートルにも登場し、また優勝してしまった。


初日の半分の距離しか見られないのがたまらなく残念だった。それくらい、楓はもうすっかり惹かれていた。


あれからひと月後の、みなと駅伝予選会。


まさか、並んで走ることになるなんて。想像すらしていなかった。


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